初めて訪れた早春の峠はまだ雪深く、複線の逞しい軌条が鉛色の空を写 してさらに重々しく続いていた。しかし、ひとたび遠い雄叫びの交錯と、潮騒のようなざわめきが聞こえ、遠い下界に白煙が舞うと、北の大幹線は動脈のように息吹を吹き返した。
重連の領域 残像 II
![]() |
第195列車はD5117 [戸]の先導で重連としては定数いっぱいを牽引して奥中山に向けての直線にかかる。
この写真は、昭和40年春に奥中山から帰って写 真屋で手札版に焼いてもらったきり、アルバムの隅でずっと眠っていた。どうしても奥中山となると三重連や後部補機の列車を焼きたくなって、重連など見向きもしなくなる。ましてやこの写 真は、ネガに傷があって、焼く気も起きずに放ってあったのだ。ところが、2003年、スキャナーが読みとった画像に思わず釘付けになった。なぜ私は、列車を右に寄せ、写 真左手を写し込んだのだろうか?単に下手だったと片づけるには、左手の地形が妙に気になった。左手奥の、左右から山並みが緩やかな角度で落ち込む谷が、吉谷地の大カーブを経て御堂に続く低地である。線路はここを大きく円を描きながら登ってくる。写 真中央から右手に力強く直線で延びる線路と左手奥の地形を対比することで、線路がいかに急坂で登っているかが分かる。この地点は、もう、吉谷地の丘陵の尾根の高度に達しているのだ。中学生の私は無意識に先ほどまで撮影していた吉谷地の地形を入れて撮ったのだろう。本島三良は「鉄道」のなかでここの23.8パーミル勾配を、サイドから撮影して表現したが、若干14歳の小生は、無意識にこの写 真で表現したことになる。ただ、奥中山がいかに高い場所に位置するか、という点の表現では、この写 真の右に出るものは見たことがない。これは、自慢話と笑われても仕方ないが、正直、小生はいつもこの写 真に見とれるし、「北斗星」に乗っていて奥中山で目覚めたときなど、この写真を頭に描きながら闇を見つめ、さすがに落ちるスピードを感じ、力んだEF81のモーター音に聞き入るのである。
1965.4.2
![]() |
![]() |
静かな午前の空気を揺るがして、9:15沼宮内発車の汽笛が二つ鳴った。やがてスピードをつけた一ノ関発青森行531列車は東京起点570キロメートル付近の築堤上に躍り出てきた。淡雪の中、牽引機の黒い影は一瞬C60に見えたが、紛れもない青森のC61トップナンバーだった。さらに驚いたのは、後部補機の前の客車たちの姿だ。スハ・スハフ32のダブルルーフが一戸のナメクジの前に連なっていたのだ。 まるで戦前にタイムワープしたような情景にしばし呆気にとられた私だった。普通 旅客列車に散発的に組み込まれていた二重屋根の客車達がほぼ姿を消したのは、3年後の43・10の白紙ダイヤ改正の頃であった。
|
1965.4.3