雑誌  地虫のつぶやき



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日日雑感 2 迷想録 3 物語り館





平成十六年 2004 三月


禁 無断使用



                                        ようこそ、あなたは累計
                                                                                          
                                          番目の訪問者です


この頁は日頃、思ったり考えたりした事を文章の形にしたものです。特別な主義、思想を主張するものではありません。気軽にお読み戴ければ幸いです。



日日雑感


       



  


 ライプドアとフジテレビ又は堀江社長と三木谷社長

 連日、ライブドアとフジテレビ問題がマスコミを賑わしている。まず、最初の司法の裁定に於いてライブドアの主張が認められて、彼らには御目出度う、と言いたい。しかし、これですべて決着したというわけではない。これから状況がどう変わるのかはまだ分らない。いずれにしても、第三者には関係の無い事で、どうぞ、勝手にやってくれ、と言うしかない。

 大体に於いて、今度の出来事は双方がいい加減なところで、いい加減な事をしている、としか言いようがない。ニッポン放送のフジテレビに対する予約権発行などは、既存の株主を無視する明らかな暴挙で話しにならないが、そして、司法が下した判断は当然の結果だ、と言えるが、ライブドアにも問題がないわけではない。一般の眼の届きにくい所でひそかに株式を買い集めていて、ある日突然、なんの説明も無くそれを表に出して、会社を寄越せなどという手段は汚いにも程がある、としか言えない。既存の株主に取っては、なんら防衛手段を講じる手立てがないままに、否応無く大株主の軍門に下らなければならない、という事態に追い込まれてしまう。そして、司法がこれを法的に許されている事だから、というだけで全く問題にしない、というのは如何なものか、という気がする。少なくとも誰でも参加出来る株式市場は、開かれた公明正大なものでなければならないはずだし、一般の眼の届きにくい場所でひそかに行われる行為がなんの規制もなく横行するとなれば、一般の小さな株主は危なっかしくて株式市場には近寄れない、という事になる。

 それにしても、堀江社長は連日、マスコミに出ずっぱりで御苦労な事だろう、と思うが、テレビなどで見た限りに於いては自身、結構、話題の主になっていて、嬉しそうにも見える。服装などもあまり見良いものとは言えないが、それはそれで良い。別に正装してマスコミの前に出なければならない、という事ではないのだから。あとはその人の感覚、常識の問題で、誰がどうこう言うべき事でもないだろう。ただ、少し気掛かりなのは、堀江社長、あなたはちょっとはしゃぎ過ぎではないですか、という点だ。例の球団経営問題から始まって、地方競馬主催などの話しも含めて、この所、あちこちで話題を振りまいているが、その裏に危なっかしさの萌芽を見ないわけにはゆかない。

 本人に言わせれば、それもこれもみんな、ライブドアという会社の価値を上げるためだという事になるのかもしれない。しかし、はた目にはまるで、玩具を与えられて単純に喜んでいる赤ん坊のようにも見える。株式市場に株式を公開し、資金調達の手段を得て、金という「玩具」を手にした赤ん坊がはしゃぎ廻っている.........、そんな風に見える。

 実際、物事はただやみくもに走ればよい、というものではない事は、先達の例から見ても分る事だ。堀江社長の上にダイエーのオーナーだった中内氏の姿が重なって見える事はないだろうか。中内氏もかつては勢いに乗ったまま、四方八方に手を延ばし、飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、結果は見ての通りに帰着した。堀江社長も現在、自社の身の丈に余る金を借り集めて、がむしゃらに走っているーーー、そんな気がするのだが、どうだろう?  そして更に、堀江社長に対比されるように楽天の三木谷社長の姿が浮かんで来る。ダイエーのかつての競争相手、イトーヨーカ堂の姿に重なりながら。ダイエーの派手な戦略に対して地道な戦略を選んだヨーカ堂は現在、セブンイレブンを含めての話しだが、隆盛を極めている。三木谷社長もいろいろ買収の手を延ばしてはいるようだが、堀江社長よりは自制的な気がするーーー。しかし、先の球団経営などの話題も含めて、戦争は始まったばかりだろうし、いずれはどのようにか決着のつく事でもあるし、フジテレビ問題を含めて、外野席は野次馬として、ただただ、興味を持って見守る事にしよう。


  

 殺人が多すぎる

 あまりに殺人が多すぎる。現実社会の話しではない。テレビ番組や出版業界に於いての話しである。−−無論、現実社会に於いても殺人事件が、新聞、ラジオ、テレビなどで報道されない日はないのではないか、と思われるぐらいに満ち溢れている。人が殺されるのが当たり前の世の中になってしまった観がある。

 いったい、いつから人間の命は人々の意識の中で、こんなにも軽いものになってしまったのだろう・・・・。自分の意のままにならないからといって、実の子さえいとも簡単に殺害してしまう親たち。物欲を満たすためには人の命など物の数ではない、といったような犯罪の数々・・・・。

 テレビではドラマの中で毎日のように、血にまみれた殺人場面が臆面もなく映し出され、本屋の店頭や、新聞、雑誌の広告には、これ見よがしに殺人を扱った読み物などが紹介されている。殺人が商品として扱われているとしか思えないような状況だ。命の尊厳、それへの畏敬といったものは何処へ行ってしまったのかと思う。

 佐世保で起こった小学校の女子生徒による殺人事件にはおそらく、多くの人が驚愕を覚えたに違いない。あれが小学生の行う行為なのか・・・・と。亡くなった女子生徒の父親の心の内を思う時、痛みなどという言葉では言い表せない悲嘆と暗黒に彩られた世界が浮かんで来る。

 おそらく父親の意識の内では時間が止まってしまっているに違いない。その日の朝まであんなに元気だった娘が今は何処にもいない・・・・。
 自分の眼の前に広がっているこの空白はいったい、なんなのか?
 自分が今、ここにこうしているのはどういう事なのか?
 娘の姿、命は何処へ消えてしまったのか?
 ーーあまりに違ってしまった世界に戸惑い、生きている実感が掴めなくなっているのではないか?
 現実の世界はだが、それでも確実に動いて行く。

 父親は自分と現実の世界との間隔の把握に苦悩しているに違いない。そして、愛娘のいなくなってしまった現実は父親の生涯から消える事はない。災難などとは言って済まされない破壊がもたらされたのだ。娘のいた日々が戻る事は決してない。一人の人間の命が失われた空白を埋める事は誰にも出来ない。

 通常、理不尽な行為の実行者、犯罪者に対しては激しい憎悪と怒りを抱くのが、正常な人間の正常な感覚ではないだろうか。わたし自身、これまではそうした感覚が素直に働いた。犯罪者を憎み、嫌悪した。しかし、今度の事件に関してはなぜか、単純に少女を憎み、嫌悪する事が出来ない。

 亡くなった少女が悪い、などという事ではない。亡くなった少女に命を奪われなければならない非があったなどとは、とても言えない。人の悪口や非難を軽々しく口にするのは罪であるには違いないが、多少の悪口や非難が死に値するものではない事は誰にでも分る。その点で加害者の少女は非難されなければならない。

 人の命を奪う行為などは、どんな事があっても許される行為ではない。殺人は人間社会に於ける最低の行為、最大の罪悪だ。しかし、それでもなお、わたしの心には単純に加害者の少女を憎み切れないものが残る。

 いったい、なぜこういう事になってしまったのか? 十一歳だという加害者の少女の心の内は知る由もないが、犯行に及んでの熟慮がなされたのか? そして、十一歳という少女の思考力が、どれ程のものであるのか? その思考力の下で、どれだけの責任が問えるのか?

 少女は日頃、暴力的な読み物を好んでいたというが、それらのものが知らず知らずの内に少女の心を蝕んでいた、という事はなかったのか? それに影響された心が無意識的、衝動的に働いた、という事はなかったか? 意識下投射(サブリミナル効果)の効果はよく知られている。日頃、慣れ親しんだものの真似を無意識的にしている事はよくある事だ。

 あるいは、少女の家庭環境になんらかの問題があったのか? 共に働いていたという両親の子供へ向ける視線が希薄、おろそかになっていたという事はなかったのか? 加害者の少女の家庭には祖母もいたという事だが・・・・。

 幼い頃、学校や遊びから帰って家に母親の姿が見えない時に抱いた、妙にうら寂しい気持ちを年配の方なら覚えていられる人も多いのではないだろか。たとえ兄妹や祖父母が家にいても、一人母親の姿が見えない家の中の寂しさには、透き間風が吹き抜けて行くような寂寥感があった。−−「おかあさんは?」「かあちゃんは?」と聞いた記憶を持っている人も多いのではないか。

 しかし、現在の世の中では、母親が働きに出ていて子供が帰る時間に家にいない、という事が極めて当たり前になってしまっている。いわゆる「鍵っ子」という現象だが、そんな中で、幼い子供たちの心には知らず知らずの内に寂しさが蓄積され、荒涼、寂寞とした感情が育まれているのではないだろうか?

 ものが豊かに溢れた現在、人々は豊かさに追い掛けられ、それを享受する事が幸せの姿でもあるかのように日々を生きている。更に個としての意識が高まり、個を主張するのが人として意識の高さを示す事でもあるかのように思われるようになっている。自分を抑制して生きるのは時代遅れだ。自己を主張し、自分を活かす人間がより優れた人間と思われるようになっている。

 自己実現ーー人々がよく口にする言葉だ。そして、そんな主張に追い立てられ、振り廻されて人々は、あれもしなければ、これもしなければ、あれが欲しい、これも欲しいと、常に満たされない思いを胸の内に抱えながら、理由もない飢餓感の中で焦り、心の内を見詰める余裕もなくしてしまっている。自己の欲望を追い求める事が生きる意義に直結し、その欲望を満たす事が最重要の課題になっている。そのために危ない橋を渡る事もいとわず、周囲をかえりみる事もなく、人が人として生きる上に於いて何が必要なのか、真実を見る眼もなくしてしまっている。

 おそらく、現代という時代は、一つの文明の行き詰まりを生きているのではないか? 経済的価値がすべてに優先し、その勝者がすべてを支配する。経済的価値が高いと思えばなんでもするーー。そんな風潮がいたるところに充満し、身の周りに殺人商品を氾濫させて、人の心を傷付けても平気でいる人々を作り出し、人の心から潤いを奪い取ってこの世界を殺伐としたものにしている。

 今、人に取って必要なものは何か、考え直してみる時に来ているのではないか。少なくとも、経済的価値が優先され、人の命が平然と奪われて行くような世の中が、人間社会として正常な世界と言えるはずがない。
 毎日毎日、血にまみれた殺人場面をテレビの画面に映し出し、その影響の及ぶところを考える事もなく平気でいられる世の中が、正常な世界と言えるはずがない。
 まずは何を措いても尊ばれなければならないものは、人の命であり、人の心だーー、そんな主張を情感豊かに謳い上げる文化が尊重され、そんな人格が尊ばれるような世の中を望むのは無理な願いだろうか? まだ日本が貧しかった頃には、そんな文化がなかっただろうか? 

 










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迷想録


認識するために(1)ーーーこれは、わたし自身が人生、あるいは世界を認識するために記録した言葉を集めたものです。

1、人間とは混沌である。

2、人は生きている限りにおいて、この世の多様性を形作っている。

3、人間はどんな人間にも確実に後世に残せる一つのものがある。心である。生前の行いによって人は自分以外の人の記憶に自分の心を残す事が出来る。人はそのために努力すべきだ。

4、人間存在は人知を超えたところにある。人がそれに対抗するには、自分自身を精一杯生きるより他に出来る事はない。今日を精一杯いきる.........人間が持つ運命の下ではそれが人に出来る唯一の事だ。

5、人はそれぞれ固有の運命に左右される。運命とは主体、空間、時間によって決定される。それは偶然に似ている。そして、人が生まれたのは偶然だと言える。また、必然だとも言える。時間、空間、存在が世界を形成する。

6、人は運命の下でしか生きられない。その人にはその人特有の運命がある。飛行機事故の時、乗っていたすべての人が死ぬ中で、ただ一人生き残る人もいる。それはその人が持つ運命によるものであり、誰の力でどうこう出来るというものではない。では、人間は何も出来ずに運命に任せて生きるより仕方がないのだろうか? そんな事はない。人には努力をすれば隠れている才能が花開くという運命があるかも知れないし、行動する事によって開かれる道というものもあるかも知れない。人はそのために努力をするのだし、努力をしなければ隠されている運命を見付ける事も出来ない。反面、何もしなくても偶然、飛び込んで来る幸運というものもあって、それがその人の持つ運命だと言える。結局、人間には努力をして自分の中に隠れている幸運を探り当てるか、いつ来るかも知れない、あるいは来ないかも知れない幸運をじっとして待つかの二つの選択肢しかない、という事になる。

7、人生とはほんの小さな出来事で大きな運命の変化にさらされる。

8、人生に見返りを期待しない方がいい。期待すれば絶望が大きくなるだけだ。人生は日々が充実の中にあればそれで充分だ。

9、人生を賭けても、希望は必ずしも達成されるとは限らない。人はその時、どう対処するかが大切だ。この世界を仮装、虚無と見れば希望が達成されなくても嘆く事はない。自分の思いを生きる事、それのみが真に大切なのだ。あれも人生、これも人生、すべて善し。

10、この世はすべて仮装である。真実はただ一つ、命は滅び行く、という事だ。人はその命を歌い、踊り、喜び、嘆き、悲しみ、怒り、死んで行く。

11、人間とは人生という銀行から日々、命という預金を引き出して生きている。

12、それでも日は過ぎて行く。時がすべてを流し去ってくれるだろう。昨日はすでに失われたものだ。

13、自我としての人間は一代で終わる。しかし、命から見る人間は人間の連鎖の環の中にいる。すなわち命は永遠だ。

14、今日という日はもはや永遠に帰らない。すなわち、今日という日は永遠の一日だ。その永遠の一日は記憶の彼方に埋没し、忘れ去られて行く事はあっても、それが無価値になる事はない。なぜなら、今日の一日は過去の一日の上にのみ成り立つ今日という一日だからであり、明日という一日を用意する一日であるからだ。すなわち、今日という一日は永遠の中の一日だという事であり、永遠の一日だという事になる。

15、自分が捉えたと思った今はすでに過去であり、永久に取り戻す事は出来ない。遠くのものは遅く動き、近くのものは早く動く。眼の前のものは瞬時に過ぎて行く。現在は永遠だ。現在を捉える事は誰にも出来ない。今現在、眼の前に迫り来るものは瞬時に過ぎて過去となり、永遠に遠ざかる。すなわち現在は無であり、永遠だ。

16、待つ時間は長い。保持したい時間は短い。年と共に過ぎ行く時間が早く感じられるのは何故か? 幼い頃は大きくなったらあれもしたい、これもしたいと考える。大人になるのを待つ時間だ。見晴らしの良い峠を脳裡に描き、苦難の道を上るのにも似た時間だ。しかし、峠を上り切り、人生全般を視界に収め得た時、もはや、待つもの、期待するものはなくなる。終わりの人生が見えて来るだけだ。峠を下るのにも似た時間。峠を下り切る事を忌避し、今を保持したい一日一日の時間は瞬く間に過ぎて行く。

17、対象物が同一である時、受容体が大きければ対象物は小さくなる。受容体が小さければ対象物は大きくなる。一年という水は子供のバケツには多く感じられるが、大人のバケツには少なく感じられる。

18、人にはそれぞれに生きて来た人生への思いというものがある。それは決して他者には知る事の出来ないものであり、それがどのような人生であれ、他人が笑う事など出来ない。

19、人はただ、実行するしかない。結果が無に帰したとしても嘆く事はない。死がすべてを運び去ってくれるだろう。死後の毀誉褒貶は死んだ当人には分らない。分らない事を気に病むのは愚かな事だ。どう納得して現在を生きるのか、それのみが真に大切な事だ。

20、人は一瞬一瞬を自分の力で選択して生きている。その生を豊かにするためにも人は学び、考えなければならない。

21、人の生きる究極の目的は幸福を享受するという事に尽きるのではないか? 自分が幸福であり、他人が幸福である事、それが人の生きる唯一、真の目的ではないか? そのために人々の努力が日々、為されているのではないか? しかし、現実はあまりに辛苦が多すぎる。

22、人はすべて各自の人生によって選ばれた人となる。

23、小さなものにも眼を向けよ。静かな日常の中にも人生の滋味は豊かに隠されている。華やかさだけを追い求めるばかりが人生ではない。ひっそりと静かに生きるのもまた、豊かな人生だ。

24、幸福とは心の充実度を言う。どんな環境に於いても、心が満たされている時、人は幸福なのである。辺境に生きる人たちを不幸だと言う事は出来ない。そこには現代的生活がないから不便であり、それを知らないから不幸だと見るのは、そう見る者たちの思い上がりであり、思い込みにしか過ぎない。ものがあってもなくても幸福そのものに変わりはない。認識されないものは無だ。それを知らなければそれがあってもなくても関係ない。

25、幸福とはどんな環境の中にあっても、時が穏やかに過ぎて行く退屈さの中にある。それを知るには戦場と化した国々の人たちを見るがいい。そこには退屈な時間など何処にもなくて、悲惨だけがすべてを覆い尽くしている。

26、文明的差異はあっても文化的差異はない。アフリカにはアフリカの、日本には日本の、その地域特有の気候風土、あるいは時代に根差した文化があるだけで、それに差異を付ける事は出来ない。

27、文明は人間社会に於ける縦軸であり、文化は文明という縦軸を中心にして横に広がる横軸である。横軸が小さくなる程、文明は衰退する。

28、文明の発達と共に、人間はますます孤独になってゆくだろう。なぜなら、文明の発達と共に人間の欲望は肥大してゆくだろうから。欲望は他者との距離を遠ざける。欲望とは、心の内にあり、人がそれぞれ各個人である以上、真に他者の心の内を理解する事は出来ない。

29、われわれが会話や見聞の中で理解したと思っているものは、自分自身の中に存在しているものへの納得でしかない。

30、真に理解した人は寡黙だ。一言で表現し、真理に到達する。自信のない人間は冗漫だ。修飾し、廻り道をする。真理を掴み得ていないからだ。

31、本物は苦闘の中でのみ生まれる。苦闘のない所に本物はない。人生は苦闘の道だ。借り物を生きれば人生は楽だ。

32、人生がわれわれに与えてくれるものなど、微々たるものだ。人生にあまり期待しない方がいい。

33、人間は宿命を背負った存在だ。この世に生まれた事自体がすでに逃れえぬ宿命だ。

34、人間には生きなければならない、などという決定的な理由はない。生きているから生きている、それだけの事だ。あとの理由は自分で見付け出せばよい。

35、あなたはこの世界に於いて完全に自由だ。しかし、その自由はあなただけの特権ではない。人間が等し並みに持つ特権だ。その特権を犯す権利は誰にもない。人は他者のさ存在と共に生きている。

36、テレビに於けるワイドショーのコメンテーター==分り切った事を大真面目で後生大事に言う事の出来る稀有な才能を持った人。
   同様にリポーター==報道の名の下に正義を振りかざしながら、必要のないものまでほじくり出し、人の心の痛みの理解出来ない偽善者。

37、正義とは命の否定と闘う事でる。命とは人間存在である。人間存在とは各個人である。各個人とは命である。

38、真の偉大さというものはしばしば、見えない所に存在する。

39、感動とは結果に関係しない。困難を克服しようとして全力を尽くす人間の真摯な姿、心から生まれるものだ。

40、人はそれぞれ自分の人生や思想、思考を言葉にして残すべきだ。それらの一つ一つが積み重なれば、豊かな社会を築くための分厚い礎となるだろう。

41、一見、無駄と思えるものが世界の礎を作っている。強者の論理、効率だけで無駄を排除すれば頂きはもろくも崩れ去るだろう。「捨石」という言葉もある。無駄がなければ世界は行き詰まる。無駄が多ければ世界は滅びる。

42、大衆は聡明である。しかし、大衆はしばしば間違う。大衆を信用してはいけない。しかし、大衆を軽んじてはいけない。大衆は鋭にして鈍である。鈍にして鋭である。大衆におもねていては何も出来ない。しかし、大衆を無視しては何も出来ない。

43、志のない人間に対しての無規制は凶器を与えるようなものである。志しとは良心である。良心とは人間を思う心である。

44、高い徳の人というのは多分、自分が周囲の人々と同じ状況にいながら、自分を顧みず、周囲の人々を思い遣る事の出来る人の事を言うのだろう。自分が裕福な環境にいて、人々のために尽くす人の事は多分、善行の人と言うのだろう。もっとも、どっちの人にもそれぞれの気質が備わっていなければ出来る事ではないが。

45、現代という時代はほとんど物質的豊かさは手に入れたのではないか? 現代の社会が目指すべきものは精神的豊かさではないのか? それだけが現代社会の混乱や歪みを正し、困窮する人々を救う事が出来るのではないか? 金銭的豊かさより、精神的豊かさを持った国や人々が尊敬され、尊重される世界を望むのは、現代という時代に於いては無理な願いなのだろうか?

46、三宅島の漁師の言葉ーー焦るな、今はじっとしていろ。
   父親は息子に、会いたい、と言って来た。家族は火山噴火のために離れ離れに暮らしていた。しかし、息子は漁が忙しくて父親に会いに行けなかった。父親はその一ヶ月後に死んだ。
   息子は、父親がわざわざ自分に会いたいと言って来たのは何故なのか、と考える。すると、昔、まだ父親と一緒に漁をしていた頃に父親が言った言葉が思い出された。
  潮目が悪くなった時に父親はいつも、焦る息子をさとして言った。「焦るな、今はじっとしていろ」
  火山噴火で家族が離れ離れになって暮らしている現在、息子はその時の父親の言葉を思い出しながら、この苦しい状況の中で父親は自分に最後の言葉として、この言葉を言い残したかったのではないか、と父親に会いに行かなかった事への深い後悔、心の痛みと共に考える。焦るな、今はじっとしていろ。==NHKの放送番組による。

47、より深く心に刻まれた思い出は一人の人間を生かす力を持つ。

48、身近な人や、名前に親しんだ人たちの死を知るのは怖い事だ。自分の属す土地が少しずつ失われ、狭められて行くような感覚を覚える。

49、人間存在は人知を超えたところにある。人間がそれに対抗するには、自分自身を精一杯生きるより他に出来る事はない。

50、人間存在とは自我である。







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物語館



     むなしい夜

1 淋しさに耐えかねて            2  さよならと一言の             3  夜が更けて霧が降る
  今夜もひとり来てみたの            言葉を残しを残し去った人          孤独がみちる胸の中
  港の見えるホテルのロビー           今ではみんな思い出なのね          港の遠い明かりも消えた
  なんの当てさえないけれど           愛の言葉ももう聞けず            過ぎた夢など追わないで
  煙草をふかしているだけで           明日のデートも出来なくて          煙草もようやく灰になり
 なんとなく 心のうつろが慰められるの   むなしさに あふれる涙が瞼をぬらすの  冷たさが 夜更けのロビーを静かに包むの

                            
 
   
   

              

昔のはなし集

(その四)

 海辺の宿

  これはすでに失われた時となった昔日の、まだ九十九里の浜辺が限りなく美しかった頃に背景を借りた物語である。

 1 

「なぜ、いらっしゃったの?」
「迎えに来たのさ」
「よく、ここが分ったのね」
 女は窓辺のソファーに掛け、編み物の針を動かしていた。顔も上げなかった。
「聞いたんだ」
 男は宿の二階の窓に向き合い、防砂林の松林越しに見える海を見つめたまま言った。
「そう、誰に聞いたの?」
「八木あつ子に聞いた」
「−−ーあの人には電話をしたから」
 編み物を眼の高さまで上げて見つめながら、女は面倒臭そうに言った。
「あちこち、ずいぶん電話をして聞いてみた。最後に八木あつ子に聞いて分った」
「八木さん、なんて言って?」
 編み物を膝の上に戻しながら女は言った。
「わたしが教えたって言わないでくれって言った」
「そう、八木さん、そんな事を言ったの?」
 女は面白そうに含み笑いをした。
「わたしの所にも、ほんの二、三日前に電話があったばかりです、って言ってた。もう、十日にもなるんです、って言ったらびっくりしてた」
 男はあきらかに不満気な様子だった。
 男の眼の前、宿の二階から見下ろす松林の向こうには、すでに夕闇が気配を見せ始めた秋の海と、白い砂浜が見えていた。小さな波が寄せては引いてゆく渚には、人影一つなかった。
「そうでしょう。それまでわたし、まったく誰にも知らせなかったから」
 女はまた編み物に視線をもどして針を動かしながら言った。
「ずっと、ここにいたのか?」
 男の口調は軽い怒りを帯びていた。
「ええ、ずっとここにーーー。何処へも行かなかったわ。この宿の二階のこの部屋と、人気のない秋の海辺と、それだけだわ、わたしのいた所は」
 女はいくぶん、投げ遣りに言った。
「なんだって、こんな所へ来たんだ?」
「死ぬた
めよ」
「ばかを言え」
 男は苦々しさを吐き出すように言った。
「嘘じゃないわ」
 女は抗議する口調で言った。
 男はその口調に、さらに苦々しげな表情を浮かべると黙ったまま、窓の外の景色に視線を向けていた。夕闇が濃くなる中で、海の砕ける波だけが白く見えていた。
「でもわたし、死ななかった。なぜなのかは分らないわ。死ぬ機会はいっぱいあったのに」
「当たり前だ。そんなにやすやすと死なれてたまるか」
「あら、死ねるわよ。今だって死のうと思えば死ねるわ。だけどわたし、死ななかった。死ぬのが怖かったからじゃないわ。−−ーわたし、ここへ来た。そして、この部屋に腰を落ち着けた。するとほっとしたの。これで一人になれた。もう、誰に邪魔される事もなく、わたしは一人なんだわ、と思うと、急に気持ちが楽になって安心してしまったの」
 女は玉になった毛糸をほどきながら、歌うように軽やかな口調で言った。
 男は女の言葉になお、不機嫌な表情を浮かべて黙っていた。窓の外に視線を向けたままだった。
「安心してしまうとわたし、もう少しこの自由な気分を味わっていたい、と思うようになったの。死ぬのが惜しい気がして来たの。−−−わたし、一日中こうやって編み物をしたり、人気のない秋の海辺を散歩したりして、毎日を過ごしていたの。とても楽しかった。幸福だった。あなたには分かりそうもないわ」
「それで、どうするんだ?」
 男が女を振り返って聞いた。
「とうするって?」
 女は意味が分からないように顔を上げて男を見た。
「帰るんだろう?」
「何処へ?」
「家へさ」
 男は不満そうで、投げ遣りに言った。
「帰らないわ。なぜ、帰らなければならないの? 」
 今度は女が不満を滲ませてはっきりと言った。
「じゃあ、どうするんだ?」
「どうもしないわ。ここに、こうしているだけよ」
 男は苦々しげな表情で口をつぐんだ。
「あなた、仕事が忙しいんでしょう。先に帰ったらいいわ。わたしはそのうち、なんとかするわ」
 女は皮肉のこもった口調で言った。
「会社へはちゃんと休暇届けを出してある」
「でも、そんなに長く、ここにいる訳にはゆかないんでしょう」
「それはどういう意味だ?」
 男は苛立ちを滲ませた。
「どういう意味でもないわ。言葉通りよ」
 女は男の苛立ちを楽しむかのように言った。
「あの女とはもう、別れた」
 男は吐き捨てるように言った。
「あら! どうして?」
 女はわざとらしい驚きを表した。
 男は苦い表情を浮かべたまま、一段と暗さを増して来た窓の外に向かって立っていた。部屋の明かりを背に、男の顔が窓ガラスに映っていた。闇に溶け込んだ海の砕ける波だけが仄かに白く、男の顔の中に見えていた。 
「別れることなんかなかったのに。あなたが好きだったら、それでよかったのに」
「いい加減な事を言うな!」
「あら、いい加減な事じゃないわ」
「じゃあ、なぜ、大騒ぎをしたんだ」
「あれはもう以前の事、今のわたしは違うわ。−−−わたし、一人で生きてみようと思うの。ここへ来てそう思ったの。あなたがいなくても生きてゆけるって、そんな気がしているの。わたし今、とっても新しい気持ちに燃えているの」
 女の表情には堅い決意が表れていた。
 男はそんな表情に女の心の内を察したかのように、不機嫌に黙ったまま、窓の外に顔を向けて立っていた。
「もし、あなたが今でもあの人が好きなのなら、あの人と一緒になってくれても結構よ。わたしの方は大丈夫だから」
「心にもない事を言うな!」
 男は何処かに皮肉を滲ませた口調で投げ遣りに言った。
「あら、本当よ。なぜ、今になってわたしが心にもない事を言わなければならないの。わたし、東京へ帰ったら離婚して貰おうと思っていたの。わたしもう、あなたを憎んでもいないし、あの人を恨んでもいないわ。わたし今、とっても冷静な心でいるつもりよ」
 男の顔が怒りを表すように小さくふるえていた。それでも男は黙ったまま、窓に向かって外の闇を見つめていた。波の砕ける様子ももう、闇に溶け込んで見えなくなっていた。
「わたし、とにかく近いうちに東京へ帰ります。そして、なるべく早く、決まりを付けてしまいたいと思うの」
「賛成出来ないね」
 男は冷ややかに言った。
「あら、どうして? あなたがわたしを縛る権利なんてないわ」
「ぼくは離婚しないよ」
「なぜ?」
「なぜでも離婚はしない」
「じゃあ、あの人はどうするの?」
「だから、別れた」
「−−−あなたって、勝手な人ね」
 女は溜め息まじりに、軽いさげすみの色合いを滲ませて言った。
「勝手じゃないさ。きみに済まないと思っただけだ」
「それじゃあ、あの人が可哀想よ。あの人、とっても好い人のようだし」
「とにかく、あっちはもう、話しが着いているんだ」
「でも、わたしには納得なんか出来ないわ」
「まだ、疑っているのか?」
 男は苛立って言った。
「疑ってなんていないわ。ただ、わたし、一人になってもう一度、新しい眼で人生を生きてみたいと思うだけよ」
 女は編み物の手を止め、正面から男を見つめて言った。
 男は女の熱のこもった強い視線を避けるように顔をそむけて黙ったいた。

 二人はその事で、この二、三年、何度もいさかいを繰り返して来た。夫の気持ちの中で、銀座のクラブで働く年若いホステスへの未練が断ち切れないせいだった。妻はそのため、一度は東京にある実家へ戻ってしまった事もあった。夫は頭を下げて迎えに行った。またある時は、妻がストーカーまがいの事をして、ホステスに気付かれ、夫に非難された事もあった。
 夫がクラブへ通うのは、ある意味では仕方のない事であった。小さな、それでも優良と言われる商社にいて貿易に係わる仕事をしていたせいで、よくそのクラブを利用した。足を運ばなければならない事情もあったのだ。女の顔を見ればおのずと関係が続く事になった。夫の身勝手、あるいは意志の弱さのため、と言えなくもなかった。しかし、夫にしてみれば、今の女性には珍しいとも言える女のいじらしさに心を捉えられていた、というのが本音かも知れなかった。夫が女のマンションに泊まった事も幾度かあった。今度の出来事も海外への出張だと偽り、女の部屋に泊まった事が妻に知られたのが発端だった。夫が四日後に帰宅した時には妻はいなかった。書置き一つなかった。夫はあちこち手を尽くして探したが、手掛かりが掴めなかった。妻の実家にまで電話をして聞いてみた。しかし、妻の母親の無言のうちに非難しているような、冷ややかな返事を聞いただけだった。ようやく夫が妻の居場所を突き止めた時には、十日が過ぎていた。

 −−−窓辺に向かって立っていた男は長い沈黙のあとでふと、うつろな表情を見せると女を振り返った。
「まあ、いい、きみがそこまで決心したんなら、それはそれで仕方がない。ぼく自身の失敗から始まった事なんだから。−−−それはそれとして、とにかく一度、東京へ帰れよ」
 男は静かにさとす口調で言った。
「ええ、あなたが帰ったら、すぐに帰るわ」
 女も心の揺らぎを見せない、納得の表情で穏やかに言った。
「いつまでもゴタゴタを引き摺っていたくないし、ぼくもそなに休んでいられないから。もし、きみが本当にそのつもりでいるんなら、ぼくも初めからやり直してみようと思う。いろいろ困る事がるかも知れないけど仕方がない。自分自身で蒔いた種なんだから」
 男の言葉にはあきらめを受け入れた静けさがあった。
「あなたがそう言ってくれると嬉しいわ。あなたにすまないと思うわ。−−−もし、あなたが今でもあの人と別れてないんなら、あの人と一緒になったらいいわ。わたしの方は気にしなくていいから」
「いや、そんな事は考えてないね」
 男の脳裡には、まだ幼いとも言えるようなクラブのホステスとの年齢差が思い浮かんだ。最初からその女性とは、そのつもりのなかった事も、改めて認識された。
「なぜ?}
「なぜっても、そんな気にはなれない」
 男は初めて女を失う悲しみを意識するかのように、うつろな面持ちで言った。
 女はそれには答えなかった。うつむいたまま、馴れた感じの素早い手つきで編み物の針を動かし続けていた。
「まあ、きみと別れるのは仕方がないとしても、ぼくに心残りがあるとすれば、きみとの間に子供を持てなかった事だ。ぼくらの間に子供でもいたら、あるいはぼくの気持ちもまた、違っていたのかも知れない」
 男は心の何処かにひそんでいた空虚を探り当てたかのように、ポツリと言った。
 編み物の針を動かし続けていた女は、男の言葉に思い掛けない事を聞いたかのように、息を呑む気配を見せた。たちまち涙ぐむと、
「それはあなたに悪いと思うわ」
 と言った。
「いや、非難しているんじゃないさ。医者でさえ原因が分らないって言うんだから」
 女は激しくすすり上げた。編み物の針は動かしたままだった。
「どっちにしてもいいさ。そうと決まれば、かえってさっぱりする。これからもなんのわだかまりもなく付き合えるかも知れない」
 男は達観したように言った。
「あなたは誰かと再婚すればいいわ」
 ようやく気持ちを鎮めた女が、また言った。
「いや、そんな事はないね。当分ないね」
 男は断言するように言った。
 女は黙ってうつむいたまま、膝の上に編み物を広げた。男物のセーターらしかった。
 男はそれに眼を止める事もなく、窓の外に顔を向けた。
 夜の闇に包まれた海の、砕ける波の音だけが窓の下にまで押し寄せて来るかのように聞こえていた。
 二人の間に沈黙が生まれた。女は膝の上に広げた編み物の目を数えていた。
「海辺へ行ってみないか?」
 突然、男が女を振り返って言った。
 女はその声でわれに返ったように顔を上げると、
「これから?」
 と、いぶかるように問い返した。
「うん」
 男は気のない返事をした。
「寒くないかしら?」
「何か着ていけばいい」
 普段の会話と変わらなかった。
「そうね」
 女もそれに応えた。
「夜の海もいいかも知れない」
「そうね」
 女はそう言うと編み物をソファーに置いた。膝に掛けていたものを外しながら、
「あなた、寒くない? それで」
 と、男の背広姿に視線を向けて言った。
「大丈夫さ、ぼくは大丈夫さ」
「わたしは宿の人に借りたカーディガンを羽織っていくわ」
 二人で部屋を出ると、廊下を玄関口の階段へ向かって歩いた。
 階段を降りる時、下の部屋の何処からか、線香の匂いが漂って来た。玄関には下駄や草履がいっぱいに並んでいた。
「なんだい、これは?」
 男が訳が分らない様子で呟いた。
「人が死んだのよ、昨夜」
 女が男に耳打ちするように言った。
「この宿でかい?」
「ええ」
 二人はそのまま、黙って玄関を出た。線香の匂いがどの部屋から来るのかは分らなかった。
 二人は宿の庭を抜けて門を出た。砂利の敷かれた県道を横切って、眼の前の松林へ入った。松林は暗かった。部屋の明かりに馴れた眼に松林の闇は苦痛だった。
 女が先に立って歩いた。もう、何度か通って知っている道だった。男は女の背中を頼りに暗闇の中を歩いた。時々、すすきの穂や葉先が体に触れた。松の木の下生えが腕にからんで来る事もあった。
 松林を抜けると砂浜だった。砂の白さが星の見えない夜の中でも仄かに浮かび上がって見えた。さえぎる物の影一つない砂浜は、砂にはう雑草を従え、幾つもの小さな砂丘を形作りながら、果ての見えない彼方まで続いていた。
 海は暗かった。絶え間なく砕ける波がその響きで、雄大な広がりを感じさせた。渚の近くでくずれる波が、時折、仄白く見えた。
 二人は無言のまま、渚の方へ降りて行った。宿の下駄をはいた二人の足は砂にめり込んだ。ようやく水に濡れて堅い砂の渚にたどり着いた。
 渚にそって二人は歩いた。足元に寄せて来る小さな波が微かに光って見えた。秋の夜の海風が肌に寒く感じられた。
「今日、あなたが来てくれて本当によかったわ。わたし今夜、一人でどうしようかと思っていたの。死んだ人のいる家に一人で眠るなんて、なんだか怖かったの」
 突然、女が男に寄り添い肩を並べると、思い付いたように言った。
「誰が死んだの?」
 男がそれに応えて言った。
「よく知らないけど、宿の女将さんの妹さんだっていう事だったわ」
「なんで死んだんだろう?」
「病気のようよ。朝起きたら、宿の人が挨拶に来て知らされたわ」
「あの家から柩が出るのかい」
「そうらしいわ」
「泊り客はいないのかい?」
「いないわ。わたし一人よ。こんな季節外れの海辺になんか、誰が来るもんですか」
「それもそうだな」
 男も単純に納得した。
「−−−東京へ帰ったら、きみは何をしようと思っているの?」
 男は少しの沈黙のあとで話題を変えて言った。
「分らないわ。まだそこまで考えていないし、当分、何も考えないで一人の時間をゆっくり過ごしてみたいと思うの。しばらく行かなかった、お芝居や音楽会などにも行ってみるつもりよ」
「それもいいだろうな」
 男は熱意のない声で言った。
「もう、わたし、何年ぐらいそうやって外へ出る事がなかったのかしら? 三年? 四年?」
 男は答えなかった。
「わたし、自分がすっかり年を取ってしまったような気がするわ。でも、よく考えてみると、ようやく三十一歳になったばかりなんだわ。まだ、老け込むのには早いと思うの」
「きみは若いよ。まだ若いよ」
 男はうつろな声で言った。
「そうでもないわ。あなたと結婚した当時から比べると........。まだ、五年と少ししか経っていないっていうのに」
 男は黙っていた。
「わたし、もう一度やり直しだわ。若返ってーーー。何かこう、自分の好きなものを活かせる洋服のデザインとか、そういうものをやってみたいと思っているの」
「お父さんに頼んでみればいいじゃないか、店を出すぐらいの援助はしてくれるだろう」
「駄目よ、父には頼めないわ。父の会社とはまったく別に、自分一人の力でやってみるつもりよ」
「そうか、おれたちの結婚生活は五年だったか」
 男は改めてその歳月を思い返すように言った。
「そうでしょう、だって、みんなで北海道旅行へ行った翌年なんだから」
「ああ、八木あつ子や唐沢文江なんかと一緒だった、あの旅行の翌年だからなあ」
「そうよ、あれからもう、五年よ」
「なんだか、つい、この間だったような気がする」
「でも、わたしたち、絶えず喧嘩をしていたわね」
「そうだなあ」
「なぜ、うまくゆかなかったのかしら?」
「わがままだったのさ」
 男が自分の非を認めるように言った。
「お互いにね」
 女も同じように言った。
「いっそ、別れた方がすっきりするかも知れない」
 男が言った。
「そうね」
 と、女は言った。それから、「でも、わたし........」と言うと言葉が途切れた。
 しばらくは口を噤んだまま二人は歩いた。男には女の泣いている気配が感じ取れた。
「宿の葬儀は明日出るのかなあ」
 男がポツリと言った。
「そうらしいわ」
 女が落ち着いた静かな声で答えた。
「きみはどうするつもりだったの?」
「お部屋にじっとしていて、外へ出ないようにしていようと思っていたの。なんだか心細くて........。あなたが来てくれたのでよかったわ」
 女は心底、安心したように言った。
 男は何も言わなかった。
「あれ、なんだか分る?」
 突然、女が闇の中で遠い彼方を指差して言った。
「何が?」
 男は女の指差す方を見ながら言った。
「ほら、あのずっと沖の方で光っているもの」
 男は闇の中で視線をこらし、女の指差す彼方を見つめた。
「漁火だろう」
「そうじゃないわ。ほら、もっと右側の」
 男には分らないようだった。
「灯台の明かりよ。岬の灯台の明かり。ほら、ときどき、キラッキラッて光ってるでしょう」
「うん」
 今度は男にも分ったようだった。
「灯台の明かりなの。岬の灯台の明かりよ」
「ずいぶん遠いなあ」
「遠いわ。わたしも初め、なんだか分らなくて不思議に思い、宿の人に聞いてみたの。そしたら、灯台の明かりだって教えてくれたの。ずいぶん遠いわ」
「−−−帰ろうか、寒くなって来た」
「わたし、初めてあの明かりを見た時、びっくりしちゃった。海の中にあんな明かりが見えるなんて」
「帰ろう」
 と、男が言った。
「そうね、本当に寒くなって来たわ」
「明日、葬儀は何時ごろ出るんだろう?」
「午後になるらしいわ」

 2  

 翌日は朝から霧のような雨が降っていた。宿では葬儀の準備で忙しかった。二人は二階の部屋にこもったままだった。女将が挨拶に来た。
「御迷惑をお掛けして申し訳御座いません」
 二人はわずかな香典をちり紙に包んで女将に渡した。
 窓から眺める景色は一面、灰色の雨に濡れていた。
 女は午前中、ソファーに掛け、編み物の針を動かし続けていた。男は所在無気に窓辺に立って、煙草ばかりふかしていた。宿の庭では喪服の人々の出入りが慌ただしかった。
 霧のような雨は止み間なく続いていた。窓から見下ろせる松林も、その向こうに見える海も砂浜も、すべてが灰色の世界に閉じ込められていた。
 葬儀は午後一時に宿を出た。灰色の雨に濡れて黒い行列となり、ゆっくりと門を出て行った。白い覆いを付けた柩を大きな大八車に載せ、村の消防団の半纏を着た男たちがその前後に付いて運んで行った。従者が柄の長い大きな傘を差しかける紫衣の僧侶を先頭に、黒い喪服の参列者たちがそれぞれに傘を差し、黙ったままあとに従った。念仏を唱える年寄りたちの打ち鳴らす鉦の音が雨の中に重く響いていた。男も女も窓辺に立ったまま、無言でその光景を見つめていた。黒い行列はやがて松林の陰に見えなくなって行った。
「人が一人、死んだんだなあ」
 男がつぶやくように言った。
 女は黙って松林の陰に消えて行った葬列を、なお見続けるかのように窓辺に立っていた。年寄りたちの打ち鳴らす鉦の音が次第に小さくなり、雨の中に溶け込むように聞こえなくなっていった。
「土葬なのかしら?」
 女が言った。
「そうらしいね」
「いやだわ、死ぬのなんて」
 女は言った。
「仕方がないさ」
 男も女もそれっきり黙っていた。男はまた煙草を取り出すとふかし始めた。女はソファーに戻って編み物の針を取り上げた。慌ただしかった宿の中が急にひっそりと静まり返って、雨の音だけが小さく聞こえていた。

 三時頃に雨が上がった。秋の海辺に陽射しが戻ると、男が女を振り返って、
「散歩に行かないか?」
 と言った。
 それまで二人はずっと黙ったままでいた。女は編み物の針を動かし続けていた。男は所在無いままに畳に腹這いになり、雑誌を開いていた。
 女は、今は窓辺に立っている男の声に初めてわれに返ったように、編み物に向けていた眼を上げた。
「お散歩? ああ、雨が上がったのね」
 窓の外に視線を移して女は言った。
「うん」
 二人は眼を合わせなかった。
「あなた、行って来たら。わたしはいいわ」
 女は編み物から手を離す時間が惜しそうだった。
「じゃあ、一人で行って来るか」
 男はなんのこだわりもないように言った。
「雨上がりのあとの晴れた景色って新鮮でいいわ」
 女は早くも編み物に視線を戻していて言った。
 男は黙っていた。
「何処へ行くの?」
 編み物から眼を離さずに女は聞いた。
「分らない。その辺を歩いて来る」
「雨でまだ草が濡れているから、気を付けた方がいいわよ」
「うん」
「秋の午後の陽射しって寂しいものよ」
 男は黙っていた。
「わたし、嫌いだわ」
 男は不満そうに黙っていた。
 女は無言で編み物の針を動かし続けた。
「じゃあ、行って来る」
 と男は言った。
「ええ」
 と女は言った。顔を上げて男を見る事もしなかった。

「あなた、帰らなくていいの?」
 夕食が済んだあと、女が心配そうに聞いた。
「そのうち帰るさ」
 男はソファーに掛け、煙草をふかしていた。
「いつ帰るの?」
「分らない。明日にでも帰ろう。」

 3

「下の食堂にいい洋酒が並んでいた。行ってみないか?」
 すでに九時を過ぎていた。宿の門灯も消されていた。葬儀があったせいに違いなかった。宿中がひっそりしていた。
「飲むの?」
 女が聞いた。
「うん、こんな田舎の宿に、あんないい洋酒が並んでいるなんて珍しいじゃないか」
「でも、まだやっているかしら?」
 女は相変わらず編み物をいじっていた。
「さっき、前を通ったら明かりがついていた」
「そう」
 女は気のない返事をした。
「きみも付き合えよ。もう一緒に飲む機会もないかも知れない」
「そうね」
 女は気の進まない様子だった。
「あとから来いよ。先に行ってるから」
「ええ」
 女はやはり気のないように言った。

 食堂にはテーブルが十脚程並んでいた。左手奥にバー形式のカウンターがあった。中の棚に様々な洋酒のビンが並んでいた。小柄な老人が背中を見せて洗い物をしていた。男が珠すだれをくぐって入る気配に気付いて、老人が振り返った。
「いらっしゃいませ」
 老人は静かに言った。
「こんな時間でもよろしいですか?」
 男は訊ねた。
「はい、どうぞ」
 老人は穏やかに言った。
「御葬式などがあったので、どうかと思ったんですけど」
 男はカウンターに歩み寄りながら言った。
「はい、大変御迷惑をお掛け致しました」
 老人は小さくゆっくりと頭を下げた。白い上着に黒の蝶ネクタイ姿だった。どこかに垢抜けした感じがあったが、上着にもネクタイにも時代を経た古色が滲み出ていた。
「亡くなったのは宿の方ですか?」
 男は老人の近く、カウンターの前の丸椅子に腰を降ろしながら言った。
「はい、女将さんの妹さんです。長い事、患っていたんですが.........」
 老人は静かに言った。それから「どうぞ」と言って、男の前に湯気の立つ小さなタオルを置いた。
「ああ、すいません」
 男はそれを手元に引き寄せた。
「何かお呑みになりますか、それとも食事を?」
 老人はカウンターに両手を着いたままで聞いた。
「呑む方にします」
 男はタオルを使いながら言った。
「そうですか」
 老人は納得顔の微笑みを浮かべた。
「いい洋酒が揃っていますねえ」
 男は棚に並んだ様々なビンに視線を走らせて言った。
「はい、旦那が来ていた頃からの習慣で、ものだけはいいものを揃えています」
 老人は得意気に言ってから、
「何をお呑みになります?」
 と聞いた。
 男は日頃から好んでいるウイスキーの銘柄を言ってから、「ロックで下さい」と注文した。
「かしこまりました」
 老人はすく゜に、少し丸くなった背中をみせて棚に向かった。
「旦那って、この宿のですか?」
 男は老人の背中に向けて聞いた。
「はい、亡くなってもう、八年になります」
「ここで亡くなったんですか?」
「いいえ、東京で亡くなりました。東京の自宅で亡くなりました」
 再び振り返って老人は男の眼の前にグラスを置くと、中に氷を入れてウイスキーを注いだ。
「お邪魔します」
 女が、珠すだれを分ける音をさせながら入って来た。
「ああ奥様、いらっしゃいませ」
 老人はにこやかな笑顔で迎えた。顔馴染に向ける眼差しだった。
 女はすぐに男の傍の椅子に腰を降ろした。
「お呑みになりますか?」
 老人はすぐに聞いた。
「はい、戴きます」
 二人の間でいつも交わされているような遣り取りだった。
「いつものでよろしいですか?」
「はい」
 女は馴れた口調で答えた。
「いつも呑んでいたの?」
 男は女に聞いた。
「ええ、ときどき」
 女に悪びれる様子はなかった。
「奥様は女らしいセンスを持った方です」
 と、老人は言った。
「うわばみですか?」
「とんでもない事です。とてもセンスのいい方です。洋酒の心といものを知っています。ーーーわたしも長い事、東京のホテルでバーに勤めていましたから、多少の知識は持っているつもりです」
「暁ホテルのバーに四十年もいたんですって」
 女が言った。
「ほう」
 と、男は感心したように言ってから、「いつ頃までいたんですか?」と聞いた。
「もう、辞めて十年以上になります。昔の事ですよ」
 老人は過ぎ去った日々への追憶をこばむかのように、乾いた口調で言った。
「そうですか」
 男はなぜか、満足気な様子でうなづくと、
「この宿の旦那っていうのは、暁ホテルの関係の人だったんですか?」
 と、再び聞いた。
「いえ、違います。耐火レンガなどを作る会社の社長でした。−−−いい方だったんですよ。それで今でも昔のお仲間が、社長を偲ぶようにして来てくれるんで、このバーも社長の健在だった頃のままにしてあるんです。もともとここは釣り宿だっんですが、釣り好きの社長が買い取って、今のようにしたんです」
「ーーーああ、もう十時を打っている」
 女が、玄関の広間で大時計がゆっくりと時を打つのを耳にして言った。
「今夜は女将さんも疲れてしまって、早く自分の部屋へ入ってしまいました」
 老人は女の言葉に答えるように言った。
「亡くなった妹さんていうのは.......、お幾つぐらいだったんですか?」
 男がウイスキーのグラスを手に、思い付いたように聞いた。
 老人には思い掛けない質問だったらしかった。ふと、とまどいの表情を浮かべたが、それでもゆっくりと答えた。
「五十歳をちょっと過ぎていたと思います.......。仲の良い姉妹だったんですが、妹さんは若い頃からの脊髄の病気で、ずっと寝たままでした。それで女将さんが面倒をみていたような訳でして」
「ーーー女将さんっていうのは?」
 男は、朝方、挨拶に来たとき眼にした、どことなく垢抜けした女将を思い浮かべながら遠慮がちに聞いた。
「東京の人でした。旦那と知り合ってここへ来るようになったという事です」
 と、老人は言った。そして、すぐに言葉を続けた。
「考えてみれば、女将さんも不幸な人なんですよ」
 と、言わずもがなの事を言って、更に続けた。
「幼い頃に両親を亡くして、それ以来、ずっと一人で病気の妹さんを守って来たっていうんですから。それこそ若い時分には、妹さんの病院代を稼ぐために、人に後ろ指をさされる事のない仕事なら、どんな仕事でもして来た、と言っていました。それが旦那と知り合ってここへ来るようになって、ようやく落ち着く事が出来たという事です」
 老人は深く女将さんの人生を思い遣るかのように言った。
「ここへ来て長いんですか?」
 男が聞いた。
「ええ、それはもう、女将さんが三十代の頃だったといいますから.......。でも、旦那もいい人だったんで、女将さんもここへ来てからは幸せだったんじゃないですか。たとえ、家庭が持てなかったにしても。ーーー.この宿も女将さんのものとして残してくれたし」
「そうですか」
 男は静かに言ってウイスキーのグラスを口元に運んだ。すぐにカウンターに戻して言葉を継いだ。
「三時頃、雨が上がったんで散歩に行ったんです。そしたら、松林の中に偶然、墓地を発見して、傍へ行ってみると雑草の黄色くなった中に真新しい墓がありました。花や線香に飾られて.......。ああ、これがさっきの人のお墓なんだな、と思いました」
「ああ、あの丘の上の.......」
 老人は微笑んでうなづいた。
「ええ、海の見える松林の中の」
「そうですか.......。女将さんにとっちゃあ、年々、衰えの度合いを増して、話す言葉も不自由になって来る妹さんが亡くなって手が掛からなくなり、ほっとしただろうとは思うものの、やっぱりこの世でたった一人の肉親を亡くして淋しかったに違いありません。あの、雨の降る墓地にいつまでも一人で立ち尽くしていました」
 老人の眼が濡れていた。
 男も女も何も言わなかった。
 宿全体を包み込むかのように波の音が響いていた。
 男はまたグラスを手に取ると、底に残っていたウイスキーを口に運んだ。
 女はカウンターに置いたブランデーのグラスに手を掛けたまま、黙っていた。かげりを帯びた横顔だった。
 老人は男のグラスが空になったのを眼にして、
「注ぎますか?」
 と訊ねた。
「ああ、どうも」
 老バーテンダーが男のグラスにウイスキーを注いだ。老バーテンダーはウイスキーの栓をするとうしろの棚に戻した。振り返ると、
「あの墓地には、わたしの家内も眠っているんですよ」
 と、嬉し気な微笑を見せて言った。
 今度は男が虚をつかれたうに言葉を呑んだ。女は顔を上げて老人を見た。
「わたしの家内も死んで、もう八年、いや九年になりますかな」
 と老人は、やはり静かな微笑みで言った。
「この村で亡くなられたんですか?」
 男が聞いた。
「はい、そうです」
「じゃあ、今は.......」
「一人です。一人でここから三百メートル程はなれた所にある家に住んでいます」
「お子さんは?」
 女が口を挟んだ。
「子供はいます。もう、それぞれに独立して、三人の子供が東京にいます。孫もいます。でも、わたしは子供たちの所へは行かないんです。いえ、仲が悪いわけじゃありません。上二人が男で、一番下が女なんですがね。自分で言うのもなんですが、それぞれに良く出来た子供たちなんですよ。でも、わたしは子供たちの所へは行かないんです。年寄り一人をこんな田舎に置いておくのは心配だから、来い来いと言ってくれるんですがね」
 老人は話しをするのが楽しいらしかった。さらに進んで話し続けた。
「この村は家内の故郷なんです。家内の故郷といっても、とっくに実家の代はかわってしまいましたがね。家内の兄も、もう死んでしまってその子の代で、それも間もなく代わろうというところなんです」
「奥さんは、なんで亡くなられたんですか?」
 男は重い口を開くようにして聞いた。
「胸の病気でした。ーーーしばらく東京の病院にいたんですが、一時的に良くなると、急に故郷のこの村へ帰りたいと言い出しましてね.......。わたしも当時はまだ、ホテルに勤めていたんですが、そろそろ年でもあるし、家内がそれ程までに言うんなら、と思ってここへ来たわけなんです。でも、ここへ来ると家内は二年も経たないうちに死んでしまいました」
 老人は遠くを見つめる眼をした。が、すぐに思い直したように言葉を継いだ。
「生前、家内は口癖のように言っていました。もし、わたしが死んだら、あの海の見える墓地に埋めて下さい、あそこにはわたしの両親も眠っているんです、ってね。ーーー家内にはもう、分っていたんですよ。自分の人生が長くはないっていう事が。それであんなにも生まれ故郷へ帰りたがっていたのに違いありません。そして、ある朝、なんの苦しみもせずに死んでゆきました。傍に寝ているわたしにも気付かれずにーーー。わたしは家内の言葉通りに、あの墓地に家内を埋めてやりました。それ以来わたしは、ずっと家内の墓を守りながら、今日までこうして生きて来たんです。ですからもう、子供たちの所へ行こうとも思わないんですよ。わたしは女将さんに頼んであるんです。もし、わたしが死んだら、家内の墓と並べて海の見える方角に埋めて下さいとね。そのための準備ももう、すっかり出来ているんです。女将さんは親切な人です。わたしが家内に死なれて一人ぼっちになってしまった時、わたしが昔、ホテルに勤めていた事を知って、人手が必要でもなかったのに気晴らしのために、この宿へ来て働くようにと言ってくれたんです。始めわたしは、御迷惑を掛けてもと思って辞退したんですが、あまりに熱心に誘ってくれるもんで、ついこうして、今日まで厄介になってしまったというわけなんです」
 老人は言い終わるとなぜか、幸福感に満ちたような満足気な表情を浮かべた。
 広間の大時計が一つだけ時を打った。波の音がそれに重なった。
「いや、失礼しました。ついつい、老人の愚痴話などをお聞かせしてしまいまして」
 老人は静寂(しじま)の中に聞こえた時計の音でわれに返ったようだった。

 4

 女は先にバーを出た。
「お休みなさい」
 と、老人は言った。
 男が部屋へ帰った時、女はソファーに掛け、膝を毛布でくるんで編み物をしていた。男がドアを開けて入っていっても顔を上げなかった。
 男は傍へ行くと、
「何を編んでいるんだい?」
 と聞いた。少し酔っているようだった。
「セーターよ」
 女は顔も上げずに答えた。
「誰のセーターだ?」
 男は編み物の針を運ぶ女の手元に視線をむけて聞いた。
「誰のでもないわ」
 女は乾いた声で言った。
「誰のでもない? −−−男物だな」
 男は編み物をのぞき込むようにして言った。
「あなたのではないわ」
 女は素っ気なく答えた。
「誰かにやるのか?」
 男はなお、執拗に聞いた。
「誰にもやらないわ」
「誰にもやらない?」
「ええ、誰にもやらないわ。当てなんてないわ」
 女は毛糸の玉をずらしながら言った。
「ばかだよ」
 男は軽く言った。
「なぜ?」
 女は静かに聞いた。
「死にに来てセーターを編んでいるなんてばかだよ」
 女は黙っていた。それから、
「そうね」
 と言った。そして、また黙った。
 男も女も何も言わなかった。相変わらず、砕ける波の音だけが聞こえていた。夜は深かった。宿の中には物音一つなかった。あの老人はもう、帰ったのだろうか?  
「おれは明日帰ろうと思う。きみはどうする?」
 男が長い沈黙のあとで言った。
「先に帰って下さいな。わたし、あとから帰るわ」
 女は編み物に視線を落としたままで言った。
「きみはこれから、どうするつもりなんだい?」
「分らないわ、よく考えてみたいと思うの」
 女は言った。

   完


 








       寒に耐え 色豊かなる 冬薔薇(ふゆそうび)



   









  

 




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