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・05/5/1
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近松ゆかりの地へ
竹本義太夫の墓 所在地:天王寺区大道1丁目 超願寺境内
最寄駅:天王寺駅下車、北側出口玉造筋を東へ、社会保険事務所の手前を北へ約400M、左側にあり、(庚申堂より約100M)
竹本義太夫は1651年(慶安4年)天王寺村(現在の天王寺区茶臼山町堀越神社附近)の百姓家に生まれ、子供のときから歌うことが好きで、研究熱心であったといわれ、中年になって当時浄瑠璃の大家であった、京都の宇治加賀椽井上播磨椽について、浄瑠璃の稽古を始めたが、浄瑠璃節がどうも自分の気に入らないので、他の浄瑠璃はもとより、当時の様々な「歌い物」「語り物」の長所を採り入れて、いわゆる『義太夫節』を完成させた。義太夫は自らの浄瑠璃を「当流」と呼んだ。
 1684年(貞享元年)道頓堀に竹本座を建て、新派浄瑠璃人形芝居を始めた。近松門左衛門が座付作者となり、その作を語り、操り人形浄瑠璃を大成した。1698年(元禄11年)には朝廷に召され、筑後掾の号を賜り、名を藤原博教と改むる宣旨を賜った。義太夫は竹本座創設の以来約30年間、大坂芸界の牛耳りを執り、当時60余州に於ける芸界の権威であったが、晩年竹田出雲に譲って隠退し、1714年(正徳4年)64歳で没した。

[参考資料] 『竹本義太夫の墓』 超願寺墓所に置いてあったパンフレット

大阪市天王寺区 超願寺に建つ竹本義太夫の墓
超願寺 竹本義太夫の墓がある超願寺の山門。当山の創立は古く、614年(推古天皇22年)聖徳太子の草創と伝えられ、太子が蘇我馬子の末子慧観を住まわしめたといわれる。
竹本義太夫の墓はお堂になっており、風雨から守られている。 竹本義太夫の墓


大阪市天王寺区 四天王寺に建つ竹本義太夫の墓
竹本義太夫の墓(四天王寺)-2 竹本義太夫の墓(四天王寺)  
四天王寺西門墓地にある竹本義太夫の墓。
この墓地には歌舞伎や浄瑠璃の関係者の墓が多くあり、義太夫の墓は、豊竹若太夫の墓と並んでおり、供養のために建てられた墓と思われる。 
 墓の傍らに建つ石標には「初代竹本義太夫墓、 初代豊竹若太夫墓、 二代竹本義太夫墓、日本因(ちなみ)会」とある。


大阪市天王寺区谷町筋に建つ竹本義太夫生誕碑
竹本義太夫生誕地  天王寺区茶臼山町の堀越神社から南に約100Mの路上にある『竹本義太夫生誕碑』。1950年(昭和25年)に「財団法人人形浄瑠璃因協会」によって建立されたが破損された形跡があり、補修されている。

文化人墓-003/TTL-093

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