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上島鬼貫の墓 所在地:
鳳林禅寺:大阪市天王寺区六万体町
鶴満寺:大阪市北区長柄東1丁目
墨染寺:兵庫県伊丹市中央3丁目
上島鬼貫は1661年(寛文元年)4月摂津国伊丹の酒造家の三男に生まれた。本名宗邇(むねちか)、通称は与惣兵衛、別号は仏兄(さとえ)・馬楽童(ばらくどう)・槿花翁(きんかおう)など。晩年平泉姓に改める。
 13歳で松江重頼に師事、のち談林風に転じた。一時は伊丹風と呼ばれる異体の俳諧に遊んだが、やがて松尾芭蕉より早く『まことの外に俳諧なし』と悟り、率直で平易な俳風を示した。著書に『犬居士』『仏兄七久留万(さとえななくるま)』『独りごと』などがある。
 鬼貫は1738年(元文3年)8月、大坂・鰻谷で没し、墓は大阪市天王寺区鳳林寺と北区鶴満寺のほか、伊丹市墨染寺ある。享年78歳。
 通説では、鳳林寺に葬られたといわれているが、鶴満寺の過去帳には「仙林則翁居士 元文戊午年八月二日圓寂七十八才 俗名上島與惣兵衛」と記されてあるとのことで、鬼貫が葬られたのは鶴満寺の可能性もある。句碑は四ツ橋、豊中・服部天神などにある。

[参考資料] 『現地解説板』など
大阪市天王寺区 鳳林禅寺に建つ鬼貫の墓
鬼貫の墓-1 鳳林禅寺山門 
鳳林寺は元は武蔵国岩村にあり芳林寺といい、豊臣秀吉の命により1588年(天正16年)この地に移った。
江戸年間は七堂伽藍の隆盛を誇ったが、先の大戦で全て焼失し、1959年(昭和34年)本堂、山門などが再建された。 
「最上山鳳林禅寺」にある鬼貫の墓。
表に「僊林即翁居士之墓」と刻されている。この墓は鬼貫200年忌にあたる1938年(昭和13年)、鳳林寺の無縁塔中から発見された。


大阪市北区 鶴満寺に建つ鬼貫の墓
鬼貫と菊翁の墓 鬼貫の墓-2
鬼貫の墓と並んで向かって左手に菊翁の墓がある。
背面には『なかぬ子を 啼い育てる 蛙哉』の句が刻まれている。
大阪市北区長柄東の「雲松山鶴満寺」にある、鬼貫の墓。
この墓は大坂の俳人田原菊翁によって、1819年(文化9年)に建てられた。墓の背面に、鬼貫の句『おもしろさ 急には見えぬ 薄かな』が彫られている。墓はご覧お通り、風化が進んでおり、補修が急がれる。

田原菊翁:1747年(延享4年)〜1829年(文政12年)。別号は馬楽堂。大坂天満老松町に住む。鬼貫の縁者と思われ、鬼貫の墓を修復したほか、1827年(文政10年)には鬼貫100回忌の法要を営んでいる。


伊丹市墨染寺」に建つ鬼貫の墓
墨染寺-1 墨染寺山門 
伊丹市中央3丁目の「墨染寺」にある鬼貫父子の墓。
もともとは一子永太郎の墓で、鬼貫の死後、伊丹の門人達が鬼貫の毛髪か分骨をこのに納め、親子墓とした。傍らに『秋ハ物の月夜烏はいつも鳴』の句碑が建つ。句碑は1845年(弘化2年)建立。
華嶽山墨染寺は上島家の菩提寺で、有岡城落城の後、1590年頃(天正18年)、山城深草(現京都市伏見区)にある墨染寺を移したと伝わるが、別の話として、天正年間この寺を再興した加楽井南おうの子江宅(医師)の妻伝が山城深草より墨染薬師を持ち嫁して来た事により改称したという。

文化人墓-008/TTL-137

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