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田能村竹田の墓 所在地:大阪市天王寺区夕陽丘町 「浄春寺」墓地
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前」下車、谷町筋「太平寺」の手前を西へ、口縄坂手前左手
田能村竹田(たのむらちくでん)は行雲流水の生涯を終えた天才画人で、1777年(安永6年)に豊後国竹田村(現大分県竹田市)の岡藩々医碩庵の次男として生まれる。名は孝憲、字は君彝(くんい)。幼名を磯吉、青年期を行蔵と称した。
 11歳で藩校「由学館」に入り、22歳で教授となる。この年『豊後国志』の編纂に参画。この編纂作業の事前調査のため、江戸に1年滞在したが、この間、画を谷文晁に師事する。文化8、9年藩内で百姓一揆が起こり、藩政を批判したため、お咎めを受け、1813年(文化10年)35歳で職を辞した。
その後、自由人として詩書画を中心とする生活に入り、京・大阪・江戸の文人たちと広く交流しながら、
中国文人画の正統を学ぶことに努めた。
 文化・文政期活躍した文人との交流も深く、浦上玉堂(生玉・持明院で同宿している)、篠崎小竹
青木木米、小石元端らと交わり、特に頼山陽とは京都で共同生活を始めるなど、君子の交わりと言われた。
自ら、[われ雪月風花の忠信たらん]と風流を終生の友とした。晩年は茶道を愛し、利休の研究者としても知られる。1835年(天保6年)59歳のとき、大坂郊外西吹田村で客死し、大坂天王寺の浄春寺に葬られた。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
浄春寺山門 大阪市天王寺区にある浄春寺。
当寺は田能村竹田のほか天文学者麻田剛立、江戸後期の儒学者春田横塘などの墓がある。塀の傍に建っているのは松尾芭蕉の「供養墓」と「反故塚」。
田能村竹田の墓(正面の背の低い方)と顕彰碑。
墓は新しく作り直されている。旧墓は無縁墓郡中にあるとのことだが未確認。
田能村竹田の墓と顕彰碑正面
田能村竹田の顕彰碑裏面 顕彰碑の背面。顕彰碑は田能村竹田の経歴と共に1923年(大正12年)に従五位が贈られた事がしるされている。没後100年を記念して1934年(昭和9年)に建てられた。

文化人墓-012/TTL-159

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