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有名人・文化人墓所
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緒方洪庵の墓へ
中 天游の墓 所在地:
龍海寺:大阪市北区同心1丁目
天游邸跡:大阪市西区京町堀2丁目
中 天游(なか てんゆう)は、江戸時代の蘭学者である。1782年(天明2年)丹後の儒医上田河陽の子に生まれ、母方の姓中氏を継いだ。名は環(たまき)、字は環中、天游は号である。
 23歳で江戸に遊学、儒学を古賀精里、医学を大槻玄沢に学んだ。京都で海上随鴎という当代一流の蘭学者から教えをうけ、1811年(文化8年)随鴎が没すると随鴎の娘さだと結婚し、1817年(文化14年)35歳のとき大坂に移住した。
 女医者として評判のよかった妻のさだとともに医業を開いたが、医業よりも蘭学に熱心で、診察と生活は妻に任せ、橋本宗吉の「絲漢堂」にも出入りし、勉学に没頭した。
自らも「思々斎塾」という蘭学塾を開いて、子弟の教育につとめた。のちに維新の俊才を輩出した「適塾」を開いた緒方洪庵は、この思々斎塾の塾生で、1825年(文政8年)から前後4年間にわたり天游の教えをうけた。
 天游は解剖図譜を翻訳したり、遺体解剖をするなど業績をあげる一方、物理・天文・数学関係の著述も残している。眼の光学機能についてわが国初の学術書「視学一歩」を刊行した。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
中 天游の墓 中 天游夫人さだの墓 
中 天游の墓は大阪市北区同心町の龍海寺にある。
「天游中先生墓」表面の剥離が進んでいる。
晩年、江戸で亡くなった緒方洪庵は、天游夫妻と同じ場所で眠るのが最後の望みであったと言われる。 
 天游の墓と並んである天游の妻さだ夫人の墓。「室 海上氏墓」 この墓は近年新しく建て直されている。


江戸堀・坂本町(現西区京町堀2丁目界隈)にあった天游邸の跡は、大阪市の顕彰史跡に指定され、1961年(昭和36年)市制施行70周年記念の一環として、「中天游邸跡」の石碑が建てられた。
ガイドブックにはこの石碑は理髪店の前にあると記載されているものが多いが、現地に行ってみると理髪店が在ったと思われる場所は駐車場になっており、石碑はこの「江戸堀中公園」の一角に移されていた。
中 天游邸跡

文化人墓-025/TTL-248

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