大阪再発見の表紙に戻る
有名人・文化人墓所
ロゴをクリックすれば
一覧表に戻ります
[更新記録]
・05/5/1
四天王寺の墓を追加
豊竹若太夫の墓 所在地:大阪市中央区中寺2丁目 「本経寺」
最寄駅:地下鉄谷町線「谷町9丁目」下車、千日前通りを西へ
最初の筋を北へ入る薬200M右側
豊竹若太夫竹本義太夫と並び、江戸前・中期に活躍した浄瑠璃の太夫で「竹本座」のライバル「豊竹座」の創始者である。
 1681年(天和元年)大坂に生まれる。商家の出身だが、家業を捨て竹本義太夫の門人となり、17歳ころから竹本采女の芸名で舞台に上がった。1703年(元禄16年)道頓堀「竹本座」の東側に「豊竹座」を創始。この時から豊竹若太夫と名乗っている。1718年(享保3年)受領して、豊竹上野少掾藤原重勝、1731年(享保13年)に再度受領して、豊竹越前少掾藤原重泰と改名している。
 この間、興行主・小屋主・太夫を兼ね、天声の美声を生かした華麗な節回しは、世の人から竹本座の「西風」に対し、「東風」と呼ばれる独特の芸風を確立した。この竹本座と豊竹座が競い合ったところに浄瑠璃の発展があり、この両者が後には融合し、現在の浄瑠璃の節回しの基本となっている。
 1745年(延享2年)の舞台を最後に引退し、以後は経営に専念。1764年(明和元年)84歳で没した。墓は中央区中寺町の本経寺と天王寺区の四天王寺墓地にある。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
大阪市中央区 本経寺に建つ若太夫の墓
本経寺 豊竹若太夫の墓のある本経寺の山門。
山門の横に建つ石碑には「豊竹若太夫墓所」とある。
豊竹若太夫の墓 法名拡大 豊竹若太夫の墓
境内にある墓は合同墓で、9名の法名が刻まれている。右端の「一音院真覚隆信日重」が若太夫法名。
豊竹桜碑 境内に「豊竹桜」と刻まれた石碑があった。
1824年(文政7年)十月、越前少掾61回忌の折、追善のために桜が植えられた。
勿論、当時の桜は残っておらず、現在あるのは何代か後に植えられたものである。


四天王寺西門墓地に建つ豊竹若太夫の墓
豊竹若太夫の墓 刻印部の拡大 豊竹若太夫の墓(四天王寺)-1
側面の文字もかなり欠けており「性名 豊竹越前少掾 藤原‥」が読み取れる。
この墓地には、歌舞伎や浄瑠璃関係の人の墓が多くあるが、この豊竹若太夫の墓が劣化が一番進んでおり、表面の文字は殆ど読取ることが出来ない。

文化人墓-35/TTL-377

1つ前に戻る このページの上に戻る 表紙に戻る

Copyrightc2015.Yoshi Planning.All rights reserved. 写真及び文章の無断使用は禁止します。