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([更新情報]
・06/5/27
天王寺屋五兵衛墓の写真追加
天五・平五の墓 所在地:
十兵衛横丁石碑:大阪市中央区今橋1丁目

江戸時代、経済制度の発展に伴い、預金の受け入れや「手形」の取り扱いを行う両替商が生まれてきた。 大坂では1628年(寛永5年)開業の天王寺屋五兵衛 が始めたのが最初といわれる。
 この天王寺屋の開業以後、大坂の町には平野屋、鴻池、加嶋屋、辰巳屋、米屋、近江屋、炭屋など名立たる両替商が開業し、大坂における商業取引の発展とともに成長を遂げている。
 1670年(寛文10年)には大坂町奉行・石丸定次による「両替屋仲間取り決め締結命令」において、幕府の為替用達、公金の出納、諸大名の資金の融通を勤める両替商を選び「十人両替」(十人組)が設置されたが、天王寺屋五兵衛はその筆頭に選ばれている。
 ここに、両替屋は幕府公認の業種となり、幕府による取り締まりの下で金融面から大坂における商業の発展を支えたといえる。そして大坂の両替商は、「十人両替」という最大手の両替商が幕命にしたがって傘下の本両替を統制・監督するという組織構造をも有していた。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
天五に平五・十兵衛横丁の碑 地下鉄堺筋線「北浜駅」を下り、今橋通りを東へ行くと、開平小学校の脇に、『天五に平五、十兵衛横町』という石碑が建てられている。
江戸時代初期、この今橋通りと交差する八百屋町筋に天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒の両替商が道を挟んで構えていたことからこのように呼ばれた。 

平野屋五兵衛の開業は天王寺屋より7年遅い、1636年(寛永13年)。

この今橋通りを「北浜駅」から西側に行くと『鴻池家本宅跡』の所在を示す石碑があり、このあたりは昔から金融街の中心地であったようだ。

天五の墓

所在地:
天王寺屋五兵衛墓:大阪市中央区谷町8丁目 久本寺
 天王寺屋五兵衛は1623年(元和9年)の生まれ。本姓は大眉氏、名は光重。摂津国住吉郡遠里小野村(現住吉区)の出。遠祖は聖徳太子が四天王寺創建の際、用材の調達を命ぜられ、その時の功により「天王寺屋」の屋号を賜ったという。父吉左衛門吉綱が大坂に進出、今橋に土木工事の店を構えたが、後に両替商に転じた。
光重は23歳で病死した父の跡を引き継ぎ、手形の流通による金融を創始した。1694年(元禄7年)72歳で没。
なお、天王寺屋は明治中期に断絶して子孫は現存していない。

久本寺山門 久本寺本堂
谷町筋に面した久本寺山門と本堂。本堂は天王寺屋の寄進によるもの。先の大戦でも罹災を免れた。
天王寺屋一族の墓 天王寺屋五兵衛の墓
整然と並んでいる天王寺屋一族の墓(左側の写真)と五兵衛の墓(右側の写真)。
五兵衛の墓の後ろに一段大きい墓が見えるが、これは住友友似の墓。久本寺には住友一族の墓がある。
天王寺屋五兵衛両親の墓 天王寺屋奉納の石灯籠
巨大な天王寺屋五兵衛の両親の墓。
正面が母の墓、右側が父吉左衛門の墓。 
本堂の両脇に建つ天王寺屋が奉納した石灯籠。
延宝5年(1677年)の銘がある。

平五の墓

所在地:
平野屋五兵衛墓:大阪市天王寺区餌差長町 西念寺
  平野屋五兵衛は本姓高木氏、名は道頓、通称は五兵衛。摂津国三島郡福井村(現茨木市)の出身。
叔父の半兵衛正親が大坂で両替商を開くにあたり、甥の道頓を養子とし、平野屋五兵衛を名乗らせた。
  草創期十人両替の中でも平五は天五と並ぶ名家であり、江戸時代を通じ、大両替商として威勢を張り続けが、明治に入り、銀目廃止と藩債整理により、天王寺屋同様没落の憂き目に遭った。五兵衛道頓は1715年(正徳5年)没。行年不明。

大阪市天王寺区餌差町にある西念寺。

西念寺には、江戸後期の歌人熊谷直好と算術家村井伊兵衛の墓がある。
西念寺山門
平野屋五兵衛の墓 平野五兵衛の墓標(中央の墓)は「釈 宗賢」とある。

文化人墓-052/TTL-476

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