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神社めぐり 屯倉神社
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道真の足跡へ



屯倉神社 所在地:松原市三宅中4丁目
最寄駅:近鉄南大阪線「河内天美」下車、近鉄バス「大堀」行で、
「三宅」下車、すぐ
当社の由緒は1726年(享保11年)に書かれた『三宅天満宮縁起』によれば、もとは上古より鎮座の天神で、「穂日乃社(ほひのやしろ)」といわれ、土師氏(後の菅原氏)の祖神である天穂日命(あめのほひのみこと)が祀られていた。
 901年(昌泰4年)菅原道真が左遷により大宰府に赴く途中、道明寺にいる伯母の覚寿尼に別れを告げた帰途、氏の社である当社に参拝したと伝わる。このとき腰掛けた石が「神形石」として境内に残っている。
 902年(延喜2年)道真が大宰府で鏡に映した自らの姿の木像に刻み、因縁の深い依羅(よさみ)の三宅寺に送られた。(この三宅寺は当社の神宮寺として明治初年まで、現在の社務所のある場所にあった。)この寺に、朱雀天皇の頃(在位:930~46年)、釈道賢という人が参篭した折、十一面観世音のお告げがあり、道賢は里人とはかり、942年(天慶5年)管公自作の像とともに、素戔鳴命と八幡本地の神影を祭神として祀ったのを当社の創起としている。。
 江戸時代、当社は河内国丹比郡依羅三宅天満宮と称していたが、明治に入り、屯倉神社と称するようになり、現在に至っている。
 当社で頂いたパンフレットには屯倉神社には「みやけじんじゃ」とロゴが振ってあったが、『全国神社名鑑』(昭和52年 史学センター発行)には「とんそうじんじゃ」とロゴが振ってあった。
「屯倉」とは『広辞苑』では「大和朝廷の直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉。転じて朝廷の直轄領。官家・屯家・屯倉・三宅などとも書く。とんそう」とあり、『日本書紀』の仁徳天皇43年や皇極天皇元年の項に「河内国の依羅屯倉‥‥」とあるようにこの地は「河内国丹比郡依羅屯倉」と呼ばれていたようである。
 当社がある場所が依網屯倉址といわれているが、現在のところ、依網屯倉の役所跡や倉庫群跡は、見つかっておらず、今後の発掘調査に期待したい。

[参考資料] 『屯倉神社』 屯倉神社パンフレット
屯倉神社正面鳥居 屯倉神社正面鳥居。
府道187号線に面して建つ。
屯倉神社拝殿。
屯倉神社の元の建物(本殿、幣殿、拝殿)は1792年(寛政4年)に建てられたものであったが、200年近く経った1988年(昭和63年)末社、手水舎、社務所も含め、全てが新しく建て替えられた。
本殿には菅原道真、須佐之男命、品陀別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)が祀られている。
屯倉神社拝殿
神形石 管公歌碑
拝殿の前にある「神形石」。
901年(昌泰4年)菅原道真が当社を参拝した際、腰を掛けたと伝わる。
傍らの「神形石」と刻まれた石標は1862年(文久2年)
に建てられた。
「神形石」の横に建つ歌碑「梅が香を袖にうつしてとどめては 春は過ぐとも形見とおもハむ」
古今和歌集では詠み人知らずとなっているが、この歌碑では管公詠とあった。
この歌は後世、「本能寺の変」で自刃した森蘭丸の辞世の歌としても有名。
注蓮柱 境内小社 酒屋神社
本殿向かう参道にある注蓮柱。



境内小社の酒屋神社。
酒屋神社は元は三宅村の西にあり、「延喜式神名帳」には、丹比郡11座の1つとして記載されている。
1907年(明治40年)に合祀された。
祭神は中臣酒屋連の祖神の津速魂命を祀っている。
境内末社 三宅龍王講 行者堂
境内末社として多くの神々が祀られている。
写真は左から、琴平神社、天照大神社、素戔鳴神社、
大物主神社、日吉神社。
その他、天津神社、市杵島神社がある。
正面鳥居の傍にある三宅龍王講の行者堂。
当地には明治以前より、大峰山を信仰する講があった。1947年(昭和22年)隣村に住む人より、数100年前の役行者像の寄贈を受け、行者堂を建て、現在では、不動明王、弘法大師を併せ祀る。
ご朱印
屯倉神社朱印
[2009年7月7日参拝]

神社-120/TTL-684

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