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神社めぐり 露 天神社
(お初天神)
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露 天神社 所在地:大阪市北区曽根崎2町目
最寄駅:地下鉄「梅田」下車、曽根崎警察署前より御堂筋を南へ
約300M、「足立宝石店」左手を曲がると交番あり、鳥居あり
(お初天神)
当社は上古、難波八十島と呼ばれた大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り、鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この神名によるとされている。
創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の御世、850年(嘉祥3年)にまで遡ることができ、六世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察される。
 901年(昌泰4年)、菅原道真が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊した折に、当社東方に伽藍を構える「太融寺」に参詣の道すがら、当地で、『露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば』と詠まれたと伝えられ、この故事にちなみ「露天神社」と称するようになったと、伝えられている。

  「お初天神」の謂われについては、当社で起きた心中事件(事件直後に近松門左衛門が『曽根崎心中』を著した)で、女性の名が「お初」という遊女であった所からきているが、心中の当事者と学問の神様が1つにしてに呼ばれるとは、いかにも大阪らしいと言える。
 現在の社殿は、旧社殿が1945年(昭和20年)6月、空襲で焼失したため、1957年(昭和32年)再建造営され、更に1977年(昭和52年)及び1995年(平成7年)に境内各所の大改修を行い、現在の姿に整備された。

[参考資料] 『露 天神社由緒略記』 露 天神社パンフレット
お初天神-1 露天神社正面鳥居
北側の入り口は繁華街の突き当たりにあり、ビルに挟まれるようにしてある。中に入ると意外と広い空間が広がっている。 南に面して建つ、正面鳥居。

本殿の前の注連柱(しめばしら)には、向かって右側の文は「定医薬金厭」、左の文は「人咸蒙恩頼」とあるが(実際の文字は旧字体)、神社のパンフレットのよれば、「当社に鎮座の大神は医学、薬学、除災のご神徳を持たれ、人々は皆、恩頼を受けている」と書かれているそうである。
ご祭神は少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)、菅原道真公が祀られており、ほとんどの願い事に対応出来る神社である。
お初天神-2
境内末社・水天宮、金刀比羅 境内末社・開運稲荷社
境内末社の水天宮、金刀比羅宮。
水天宮は元は久留米藩蔵屋敷に祀られていたが、明治維新の際、丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀された。
1909年(明治42年)の「北の大火」後、当社に斎祀された。
境内末社の開運稲荷社。
1909年(明治42年)の「北の大火」で近在各地に祀られていた稲荷社4社が焼失したため、1910年(明治43年)当社に合祀された。
お初天神-3

『曽根崎心中』のお初・徳兵衛の像と供養塚(下の写真)。1703年(元禄16年:丁度300年前)堂島新地の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」がこの地で情死する事件があり、 これを近松門左衛門が『曽根崎心中』として劇化、大評判となり、それ以来、人々は当社を「お初天神」と通称するようになった。
尚、「お初・徳兵衛」の墓は八尾市の大通寺にある



お初天神-4 2004年(平成16年)4月に
 お初・徳兵衛像が建てられ、
 レイアウトが変わったため、今
 までよく見えなかった塚も、前
 の方に移された
ご朱印
お初天神朱印-1
[2003年10月25日参拝]

神社-006/TTL-070

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