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神社めぐり 大鳥神社
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大鳥神社 所在地:堺市西区鳳北町一丁
最寄駅:JR阪和線「鳳下車、北東約300M
大鳥神社は「和泉国一宮」で旧官幣大社である。当社の草創は855年(斎衡2年)の『大鳥五社大名神并神鳳寺縁起帳』によれば、景行天皇40年、日本武尊が東国平定の帰途、伊勢国能褒野(現三重県亀山市)で没した。天皇は尊を同地に葬らせたが、尊は白鳥と化して陵を出、琴弾原(現奈良県御所市)にとどまった。ここにまた、陵を造ったが、白鳥はさらに飛び立ち止まったのが今の社地で、その霊を祀ったのに始まるという。
 この鎮座譚は大鳥を日本武尊の白鳥伝承に結びつけたもので、本来は当地方に本貫を持った大鳥氏の祖神を祀った神社といわれている。
 「延喜式」神名帳には「大鳥神社名神大、月次新嘗」と見え、和泉国唯一の神名大社となっている。
延喜22年(922年)の奥付を持ち内容的には鎌倉時代の様子を表したものと推定される『大鳥神社流記帳』には、同郡の式内社の大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社とともに「大鳥五社」の集合が見られる。ただし、この頃はまだ現在の祭神日本武尊ではなかったことが知れ、日本武尊の伝承を持つ大鳥神社となるのはこれ以降のことと思われる。
 また、南北朝時代よりは泉穴師神社聖神社積川神社日根神社とともに「当国五社大明神」を形成するにいたり、その地位は確固たるものとなった。
 天正年間(1573~92年)の兵乱によって社殿が炎上した。1602年(慶長7年)豊臣秀頼によって再興されたが、大坂の陣で戦火に遭った。江戸時代の(寛文2年)徳川家綱の命により、堺町奉行石河土佐守が再興、更には元禄年間(1688~1704年)神鳳寺(大鳥神社神宮寺)に高野山新別所の快円が入寺したことにより、隆盛を極めることとなった。神鳳寺は明治初年の神仏分離で廃絶している。

[参考資料] 『大鳥神社由緒略記』 大鳥神社パンフレット
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社    
大鳥神社鳥居

大鳥神社正面の鳥居。
境内の森は、白鳥と化した日本武尊が当地に鎮まった時、一夜にして種々の樹木が生じたので、「千種の森」と称せられる。



 境内には「官幣大社」の石標が
 建つ。
大鳥神社拝殿。
祭神は日本武尊、大鳥連祖神。 
大鳥神社拝殿
大鳥神社本殿 本殿の造りは「大鳥造り」と呼ばれる独特の造りで、
「大社(出雲)造り」から発展したと考えられる。
現在の社殿は(明治42年)に再建された。
境内摂社大鳥美波比神社 境内摂社火鎮大明神
境内摂社の大鳥美波比神社。祭神は天照大神。
1879年(明治12年)旧北王子村より遷祀した。
境内摂社の稲荷神社。
与謝野晶子歌碑 平清盛歌碑
与謝野晶子の歌碑。
『和泉なる わがうぶすなの 大鳥の宮居の杉の青き一むら』
『時事新報』の大正3年1月1日号に掲載された。
与謝野晶子は堺市出身で、旧姓は鳳(ほう)。
大鳥との因縁が感じられる。
平清盛の歌碑。
1159年(平治元年)平清盛、重盛父子がが熊野参詣の途中、都で兵乱があると聞き、都に帰る途中、当社に戦勝を祈願して詠んだ。
『かひこぞよ かへりはてなば 飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神』。この歌碑は明治四年に当社大宮司であった富岡鉄斎の筆による。
ご朱印
大鳥神社朱印
[2007年5月4日参拝]

神社-086/TTL-556

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