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徳寳山 大通寺 所在地:八尾市教興寺
最寄駅:近鉄線大阪「高安」下車、東へ外環状線、旧国道170号線
横断約1km,,「教興寺」の手前、天理教教会の前を入る
当寺の起源は古く、聖徳太子物部守屋との戦いの際、当寺にその戦勝を祈願したと伝わる。
以来、教興寺の一坊、塔頭寺院であったものが、戦火に遭うなど荒廃していたが、元禄年間に融通念仏宗寺として、大通上人により再興され、寺名もこの時大通寺と改め徳宝山の山号を受けた。
その後、1927年(昭和2年)の奥丹後の震災により本堂が傾くなどしたが、仮本堂を再建し、戦後に現在の形に再興した。
境内には、近松門左衛門の『曽根崎心中』で有名な、お初徳兵衛の供養墓がある。
大通上人大念仏寺46世融観(生没年は諸説あり、1654〜1721年(承応3年〜享保6年)とも1649〜17
16年(慶安2年〜正徳6年)とも)。大坂平野に生まれる。
生家は代々融通念仏宗の檀家で信仰が厚い家柄であった。在家の頃から天台・禅等を学んだ。
出家後、45世良観と共に融通念仏の復興に努力。幕府の宗教政策としての寺請制度・本末制度が確立する17世紀後半、宗規の制定や教義の明文化(「融通円門章」等)を行い、元禄元年(1688年)には大念仏寺を総本山とする融通念仏宗の公認を得、再興の祖とされる。

[参考資料] 『現地解説碑』 八尾市教育会編
大通寺山門 かって教興寺の塔頭寺院であったとのことだが、その
教興寺」(河内33ヶ所第16番霊場)とは、100m足らずの距離にある

大通寺本堂

 現在の本堂は1947年(昭和
 22年)の再興になる。


門前の地蔵堂内には鎌倉末期の「正和2年癸丑」の紀年銘(1313年)の子安地蔵が祀られている



大通寺地蔵堂内部 門前にある八尾市教育委員会
 の解説碑によれば、子安地蔵
 の傍らにある矢高地蔵と共に
 八尾市では貴重な石造り遺品
 とのこと 。
大通寺地蔵堂
お初徳兵衛の供養墓  
お初・徳兵衛の夫婦塚 「曽根崎心中」のお初・徳兵衛の夫婦塚、又は縁つなぎの墓と呼ばれている。
伝説ではお初はこの教興寺村の出身で、この2人を不憫に思った教興寺の住職浄厳和尚は碑を建てて手厚く回向した。この話を教興寺に滞在中に浄厳和尚から聞いた近松門左衛門は早速脚色し、大坂竹本座で上演した。
ご朱印
河内三十三ヶ所観音霊場
大通寺朱印
[2004年6月18日参拝]

寺院-036/TTL-056

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