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霊場参拝
和泉三十三ヶ所 和泉三十三ヶ所
第17番
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瑞竜山 観音寺 所在地:泉大津市豊中2丁目
最寄駅:南海本線「泉大津」下車、南海バスで「槙尾山」方面行きで「我孫子」下車、北へ約700M
(お寺に至る道は直線な道でないため途中で数回訪ねた)
貞享年間(1684〜88年)泉州33所霊場には17番札所として豊中村黄檗宗大福寺と記されているとのことで、大福寺は泉穴師神社の東側に位置していたが、明治以前に既に廃寺となっている。
その後、札所は真言宗清修寺に引き継がれた。この清修寺は恵心僧都の開基とも伝わるが確証はない。
 その後、清修寺が荒廃したが、豊中村の庄屋辻村茂左衛門の母宝誉栄林という法尼が一宇を建て、宝暦年間(1751〜64年)には隣村の八木惣右衛門が本堂、庫裏を再建した。
 1844年(弘化元年)に放火により全焼、この時も八木家の尽力により1848年(嘉永元年)に再興している。
 近年、この清修寺も維持が困難となり、1956年(昭和31年)同村同宗派の聖徳寺と併合し、名を聖徳寺と改め、現在に至っている。
恵心僧都:平安中期の天台宗の学僧。名は源信。942年(天慶5年)大和に生まれる。9歳で比叡山に登り仏門に入る、13歳で得度。若くして横川恵心院に隠遁し、研鑽を積む。「往生要集」を著して浄土教の理論的基礎を築いた。他に「一乗要結」など。1017年(寛仁元年)76歳で入寂。

[参考資料] 『泉州 和泉西国三十三所めぐり 観音さま』 和泉西国会発行
聖徳寺山門。
手入れが行き届いている境内を望まれる。
聖徳寺本堂。
本堂の前には大きなシュロの木が茂っていた。
境内に入った所に、聖徳寺の前身の清修寺の由緒とともに、八木惣右衛門の子孫が先祖の活躍を刻み顕彰している。この碑の中で、恵心僧都は江戸時代初期の人と書かれているが、世に言う恵心僧都は平安時代の人であり、碑文が間違っているのか、江戸時代にも恵心僧都と呼ばれた人が居たのか不明。 境内にある墓地の一角に、堂の中に墓石が建てられてあるのがあったが、これは檀家の中でも大檀那の家の墓であるとのことであった。
聖徳寺と並んである浄福寺。この寺もかっては、和泉33ヶ所霊場であったという説もあるらしい。門前に壊れかけた石碑が建っていたが(右側の写真)、「西国17番」とあり、 施主辻村源右衛門、田中惣兵衛ほか数名の人の名がかろうじて読める。この石碑はかっての清修寺の物なのか、浄福寺が札所だった時のものなのかは判らない。
ご朱印
和泉三十三ヶ所観音霊場
聖徳寺朱印
[2006年11月3日参拝]

寺院-189/TTL-514

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