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霊場参拝
和泉三十三ヶ所 和泉三十三ヶ所
第23番
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龍臥山 久米田寺 所在地:岸和田市池尻町
最寄駅:JR阪和線「久米田」下車、徒歩約10分
当山は天平時代聖武天皇の勅願により、橘諸兄を大檀越として、行基菩薩によって開創された。
行基49院の1つで、門前に広がる久米田池を維持管理するため、738年(天平10年)に建てられた隆池院に始まるという。
 草創の初めより、奈良興福寺の末寺として、その別当職は興福寺一乗院家が相伝し、平安時代にかけては学問の寺として発展し、南都北嶺(興福寺と比叡山)の学徒の往来も多かったと伝わる。
 平安時代末期から鎌倉時代にかけ、社会不安と大動乱のため荒廃が目立ち、1187年(文治元年)後白河上皇が、1199年(正治元年)後鳥羽上皇が相次いで寺領安堵状と国役免除の庁宣が下されたが、退廃の勢いを留めるには至らず、弘安(1278〜88年)の頃には伽藍ことごとく傾き、わずかに金堂・多宝塔・寺院2、3宇を存し、後は礎石ばかりというありさまとなった。
 安東蓮聖が時の執権北条時頼の助力を乞い、再興に着手。当寺の僧たちは勧進をはじめ、1282年(弘安5年)には堂宇の新築、多宝塔の修造、経蔵、僧堂などの完成を見、奈良西大寺の叡尊を導師として落慶供養を行った。
 その後、1563年(永禄5年)三好実休畠山高政の久米田合戦があったとき堂塔が兵火にかかり、宝物・古文書は施福寺(現和泉市)に移して難は免れたが、戦国騒乱 の渦中で寺は衰微し、江戸時代に入ってようやく復興に着手、1674年(延宝2年)に至って一応再興を成し遂げた。その後宝暦〜明和(1751〜72年)の修理再建を経て、現在に至っている。
 なお、当寺の背後に点在する古墳は久米田古墳群とも呼ばれており、貝吹山古墳(伝橘諸兄墓)、風吹山古墳、無名塚古墳(伝橘諸兄夫人の墓)、光明塚古墳、池尻古墳、志阿弥法師塚(伝行基の高弟の墓)など多くの古墳が存在する。

[参考資料] 『久米田寺』 久米田寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
久米田寺山門 久米田池に面して建つ山門。1706年(宝永3年)の再建と伝えられる。
なお、久米田寺の境内は大阪府指定の史跡となっている。
久米田寺金堂(本堂)。(明和7年)の再建
本尊の釈迦如来野ほか、文殊菩薩、普賢菩薩を安置する。
久米田寺金堂
久米田寺多宝塔 久米田寺多宝塔。
2003年(平成15年)に再建落慶したばかりで、朱色が目に映える。
久米田寺大師堂 久米田寺開山堂
大師堂。1824年(文政7年)の再建。
弘法大師、不動明王、毘沙門天を祀る。
開山堂(行基堂)。
1822年(文政5年)の再建と伝え、行基菩薩を祀る。
久米田寺観音堂 石造五輪塔
観音堂。1803年(享和3年)の再建。
行基菩薩40歳のときの、自刻と伝える千十観音菩薩を安置する。
石造五輪塔。重要文化財の指定を受けている。
3基の中央は聖武天皇、左端を光明皇后、右端を亀山天皇の墓と伝えられる。石塔は鎌倉時代のものであり、追善供養として建てられたものらしい。、
光明塚古墳 行基菩薩の墓
光明塚古墳。光明皇后の爪、遺髪を葬ったと伝わる。 行基菩薩の墓。開山行基の舎利を分骨して納める。
貝吹山古墳 久米田池
久米田寺と道を隔ててある貝吹山古墳。
全長135m・後円部径82m・前方部幅64mの前方後円墳で、段差のある周濠をめぐらしている。橘諸兄の墓と伝わる。
久米田池は農閑期のため、池の水は抜かれ、護岸工事が行われていた。
池尻町・岡山町にまたがって周囲約4Km、水面積約63ヘクタールの広さがあると言われる。
ご朱印
和泉三十三ヶ所観音霊場
久米田寺朱印
[2007年2月10日参拝]

寺院-193/TTL-527

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