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霊場参拝
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[更新記録] 
・13/6/22
文中漢字の誤り訂正 漁師→猟師



犬鳴山 七宝瀧寺 所在地:泉佐野市大木
最寄駅:南海本線「泉佐野」OR JR阪和線「日根野」下車、
南海バス「犬鳴山」行きで終点下車、徒歩約1Km
当山の縁起は寺伝によると661年(斉名天皇7年)役行者が当山奥の滝岩に出現した不動尊を祀る一堂を創建したのに始まるという。
 寺名の七宝瀧寺は天長年間(824〜34年)の旱魃のとき、淳和天皇は諸国の霊山、神社仏閣に祈雨の祈願をさせ、当山でも本尊不動明王に祈雨の大法を修し所、霊験あって和泉国一円に雨が降った。
そこで淳和天皇は、犬鳴山中にある著名な七瀑を金銀などの七宝に模し、寺号も七宝滝寺と勅賜されたという。
 また、山号の犬鳴山は天徳年間(957〜61年)*(1)、紀州池田庄の山田某なる猟師が鹿を追って
戸(塔)瀧附近まで来たところ、その時愛犬が主人の猟師に向かって吠えたてるので怒った猟師は愛犬の首をはねてしまった。愛犬の首はそのまま猟師の背後の岩の上に首に飛び上り、猟師を飲み込もうとしていた大蛇の頭に噛みつき猟師を救い、大蛇と共に息絶えた。この愛犬の心を知った猟師は当寺で発心剃髪し、山林修行者となり、自ら持っていた弓を二つに折り、卒塔婆をつくり愛犬を供養した。この出来事から山号も犬鳴山と称するようになったという。
 その後、正平年中(1346〜70年)、土丸城主橋本正高が粉河寺の志一上人を招いて不動堂の修造をを始め、諸坊を建立し再興した。七宝瀧寺では志一上人を中興の祖としている。
 戦国時代には織田信長により100町歩が没収され、豊臣秀吉の紀州攻撃の際には兵火にかかり、本堂以外は焼失したという。お寺で伺った話で「紀州攻撃の際に、泉南の他の寺社のごとく壊滅的な破壊を受けなかったのは、秀吉はこの寺院を山岳部にある修行場の道場程度にしか見ていなかったために被害がその程度で済んだのかの知れない」との説は現地の堂宇の佇まいから見て説得力がある。
 その後、秀吉は瀧本坊を再建。江戸時代に入り、修験道の復興と併行して当山も隆盛となり、観音堂、本堂が修復され、岸和田藩主岡部氏により、寺領が寄進されるなど寺観を整えた。
*(1)一説には890年(寛平2年)とも。犬鳴山の山号も、宇多天皇(在位:887〜97年)がこの話を伝え聞き、「報恩の義犬よ」と賞し、それまで称していた一乗山鈴杵ヶ岳を改め「犬鳴山」と勅号を与えたと伝えられる。

[参考資料] 『大本山 犬鳴山 七宝瀧寺縁起』 七宝瀧寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
七宝瀧寺本堂 七宝瀧寺の本堂(側面)。
本堂は樫井川の渓谷に添って、岩場を利用して河原に出っ張るように建てられているので、建物の正面から全景をカメラに撮ることは難しい。
護摩壇の正面に立つ高さ7mの身代わり不動。 七宝瀧寺身代わり不動
瀧の前に建つ役行者像 七宝瀧寺清瀧堂
『行者の瀧』の前に役行者の像が安置されている。、像の下は「行者くぐり岩」があり、ここをくぐると六根清浄、もろもろのけがれ不浄が無くなり、所願成就の法益を受けることができるとのことだった。 『行者の瀧』に行くにはこのお堂でお賽銭をあげなければならない。
お堂の朱色が木々の緑とのコントラストで鮮やかに映える。
七宝瀧寺観音堂 七宝瀧寺布袋堂
観音堂。弘法大師自作の厄除け十一面観音像を祀る。
観音堂は江戸時代の1652年(承応元年)に建てられ、1886年(弘化3年)に再興されているが、近年損傷著しくなったため、1986年(昭和61年)再建された。
布袋堂。
南海電車の沿線にある寺社で構成されている七福神めぐりの札所になっている。
ご朱印
近畿三十六不動尊 役行者霊蹟札所 南海沿線七福神札所
七宝瀧寺朱印-1 七宝瀧寺朱印-2 七宝瀧寺朱印-3
[2007年4月10日参拝] [2007年4月10日参拝] [2007年4月10日参拝]

寺院-203/TTL-549

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