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寺院めぐり
寺院めぐり 壬生寺
(一夜天神堂)
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道真の足跡へ
壬生寺 所在地:京都市中京区壬生梛の宮町
最寄駅:阪急京都線「大宮」、OR京福電鉄「四条大宮」下車、西へ約400M、バス停「壬生寺道」を南へ入る、約200M
壬生寺は正式な名前は寺号を宝憧三昧寺、院号を心浄光院といい、山号はない。壬生寺は通称で壬生地蔵とも呼ばれている。
本尊は延命地蔵菩薩であり、水掛け地蔵を始めとする、多数の地蔵菩薩が祀られ、古来より厄除・開運の寺として庶民の信仰を集めている。
 991年(正暦2年)三井寺(円城寺:滋賀県大津市)の快賢僧都によって再興され、小三井寺と名乗った。1077年(承暦元年)白河天皇より、地蔵院の勅額を受け、、現在地に移っている。
その後、度々火災に遭い、再建を繰り返している。最近では1962年(昭和37年)本堂を全焼し、本尊地蔵菩薩像を含む多数の寺宝を失ったが、新しい本尊延命地蔵菩薩立像(重要文化財)が、律宗 総本山唐招提寺から移されて、1970年(昭和45年)に本堂の落慶法要が行われ、現在に至っている。
 壬生寺といえば、壬生狂言と新撰組で有名であるが、1257年(正嘉元年)罹災し、その再興勧進に尽力した、円覚上人導御が、融通念仏の聖であったことから、融通大念仏がその起原と伝承され、750年の歴史を持つ伝統芸能といえる。
 境内に「一夜天神堂」と名付けられたお堂があるが、これは菅原道真が、大宰府に左遷される途中、壬生の親戚の家に立ち寄り、一夜の名残を惜しんだという伝説があり、今回の目的は、道真の足跡を訪ねての参拝である。

[参考資料] 『壬生寺』 朱印帳に挟まれたしおり
         『日本歴史地名体系』(京都府の地名編) 平凡社
壬生寺山門 壬生寺山門。
参拝した時は丁度『壬生狂言』が開かれている時で、山門の柱には案内の看板が取り付けられてあった。
山門を入った右手にある「一夜天神堂」。
壬生寺の歴史の古さに比べ、この一夜天神堂の由緒は比較的新しい。
傍らの解説パネルによると、「江戸時代前期、壬生寺支院・寂静庵の開祖託願上人の夢枕に道真が立ち、自分を壬生の地に祀るように告げた」とのことである。ご神体は託願上人作と伝わる一夜天神像。
現在の堂宇は1852年(嘉永5年)の再建。
手前の鳥居には「寛文十二壬巳年(1672年)」、「託願
建之」の文字が彫られている。
また、一夜天神は「一夜にして知恵を授かる」として、学業上達の御利益があらたかであるらしい。
一夜天神堂
壬生寺本堂 壬生寺本堂。
1962年(昭和37年)の火災で全焼し、その後再建された。

千体仏塔

 本堂と並んで建つ千体仏塔。
 1989年(平成元年)壬生寺創
 建1000年を記念して改築され
 た。
 塔のデザインはミャンマーのパゴ
 ダを模している。
近藤勇像 新撰組
境内壬生塚に立てられている近藤勇像。
新選組顕彰碑。後ろ側には「局中法度書」が書かれてある。
新撰組隊士の墓-1 新撰組隊士の墓-2
左の小さい墓は「芹沢鴨と平山五郎の墓」。右の合同墓には池田屋騒動で亡くなった隊士奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門を始め、隊士7名の名が刻まれている。 左側の細長い墓が勘定方を勤めた河合耆三郎の墓。

「ああ新撰組」歌碑 人丸塚
三橋美智也のヒット曲「ああ新撰組」の歌碑。コインを入れると歌が流れる。
作詞者の横井弘の揮毫。(作曲は中野忠晴)
人丸塚。万葉の歌人、柿本人麻呂の灰塚と伝わる。
この碑は大正時代の建立。
人麻呂→人丸→火止まるで火除けのご利益があるとのこと。
ご朱印
壬生寺朱印
[2006年4月23日参拝]

寺院-166/TTL-469

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