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史 跡
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楠母神社跡 所在地:富田林市甘南備
最寄駅:近鉄長野線「富田林」下車、金剛バス東条線「甘南備」下車すぐ
大阪府南河内郡東条村字甘南備小字矢佐利(現富田林市甘南備)は楠木正成夫人の久子の誕生地と伝わり、この地にかっては楠木久子を祭神としたその名も「楠母神社」という神社が存在した。
 当社の創基は1940年(昭和16年)で、楠公父子の「滅私奉公」を支えた久子夫人の「内助の功」を称えると共に、日中戦争等で戦死した兵士の家族(夫人や子供たち)を励ます目的での創建であったとのことであるが、時は紀元2600年を期しての建立であり、久子夫人の生涯を日本婦人の亀鑑として、利用した観は否めない。
 敗戦後も、戦争未亡人や戦災孤児などの心の支えとなったようだが、神社の管理に当たっていた人に後継者がなく、今から30年ほど前に廃社となり、取り壊されてしまった。
 神社跡は荒れた状態になっていたが、この跡地を公園として活用する案が持ち上がり、筆者が訪れたとき(平成23年1月中旬)には既に辺りの木や竹が伐採されており、跡地には桜が植えられるとのことであった。
 この地が整備されることは、時代が弄んだ久子夫人に対する鎮魂にも成ると思われる。当時に建てられた石碑の類は歴史の一面を後世に語り継ぐためにも、現状のままに保存することを望ましい。桜が一面に咲く頃に、再び訪れてみたい。

神社への登り口に創建時に建てられた「楠母神社創建の経緯」を記した石碑。
碑文の最後の部分には「この聖地に神社を建立し、永久に淑徳を讃仰し奉る」とあり、久子夫人の美徳を永久にほめたたえ仰ぐ筈であったが、敗戦とともにその役目も終わってしまったと言うことだろうか。
李(方子)王妃殿下が楠母会に賜った御歌」の碑。
この碑はかっての社殿の前に建てられており、碑文には
「皇紀2600年を記念し、府下女学校生徒、国民学校女児童は楠母神社本殿を、国防婦人会関西本布管内会員は同拝殿を寄進した」とあり、楠母神社の建設は大阪府下の女性を総動員した国民的行事だったと思われる。
神社の社殿があったと思われるな場所。
一対の狛犬があらぬ方向を向いている。
奉献と刻まれた石碑が横倒しになっていた。
久子夫人と2人遺児の石像?。無残な姿をさらしている。
神社跡の高台から谷(集落)を挟んで楠妣庵の本堂の屋根が望まれる。
楠妣庵は久子夫人の終焉の地でもある。

史跡-192/TTL-728

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