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史 跡
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兼好法師の遺跡 所在地:大阪市阿倍野区松虫通3丁目
最寄駅:南海阪堺線「北天下茶屋」下車、東約300M
摂津八十八ヶ所第32番霊場「正圓寺」境内に、「兼好法師の藁打石」と「兼好法師隠棲庵跡」の碑が建っている。吉田兼好は、鎌倉末期から南北朝時代にかけての歌人であり、後宇多天皇に仕える北面の武士であった。
 1324年(正中元年)比叡山で剃髪し、京都吉田山に隠れ住み、後には南北朝の戦乱を避け、彼の弟子の命婦丸(文献によっては命松丸)の里であった阿倍野丸山(現在の大阪市阿倍野区丸山通り付近)に移り住み、自ら藁を打ち、ムシロを織って、清貧自適な暮らしを営んでいたと言われている。
 『兼好法師の藁打石』と伝えられる大石は、元は当寺院の北の方に丸山古墳があり、その近くにあった柘榴塚の大石が伝えられたもので、現在正圓寺門前の正面参道の石段のところに建つ「大聖歓喜天」と刻んだ標碑の礎石がその『藁打石』と言い伝えられている。
すぐ傍らに『兼好法師隠棲庵跡』の碑や『句碑』も建てられているが、これらの石碑は柵で囲まれており、石碑の建立年月などは確認できなかった。
吉田兼好:1284年?〜1350年?(弘安6年〜正平5年:その生年と没年は諸説ある)鎌倉時代末期・南北朝時代の歌人・随筆家。 卜部兼好(うらべのかねよし)が正しいらしく、吉田兼好は後世の俗称。武士 として朝廷に仕え、のち出家。山城国山科小野荘に住み、随筆文学の傑作『徒然草』を書いた。

「兼好法師隠棲庵址」の碑 正圓寺境内庭園に建てられている『兼好法師隠棲庵址』の石碑。
「大聖歓喜天」が建てられている下の礎石が『兼好法師藁打石』と伝わる。 「兼好法師藁打石」の碑
燦浪の句碑 燦浪(吉本?)の句碑『兼好の 午睡さますな 蝉しぐれ 』
兼好法師関連の一群の石碑の中では最も立派な石碑である。

史跡-010/TTL-107

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