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史 跡
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長久寺へ
赤穂義士の墓所へ
原惣右衛門の墓 所在地:大阪市中央区谷町8丁目 「長久寺」墓地
最寄駅:地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車、谷町筋を南へ
谷町7丁目交差点西に入るすぐ
原惣右衛門元辰(はら そうえもん もととき)は役職は足軽頭、禄高は300石扶持で、討ち入りメンバーの中では、大石内蔵助(1500石)、片岡源五右衛門(350石)についで、No3の高給取りであった。 
 惣右衛門は殿中で刃傷事件が起きたとき、警護留守役として伝奏屋敷に詰めていたが、事件勃発後、即刻引き上げを命じられたが、狼狽する藩士を指揮し、わずかな時間で、運び込んでいた道具を撤収させた。続いて、鉄砲州浅野邸引き払いにも、右往左往する人達を指揮し、大きな混乱も無く荷物運搬を終えている。
 そして、その夜のうちに、大石瀬左衛門とともに早駕籠に乗って、赤穂への凶変急報の第2陣の使者として出発するなど、機敏な活躍ぶりを見せている。
 谷町・長久寺境内には惣右衛門の墓と並んで、惣右衛門が建てた母和田氏の墓があり、この母は1702年(元禄15年)8月、わが子を励ます遺書を残して自害したとも伝えられているが、事実でないとする説もある。切腹時の年齢は56歳。また、討ち入り義士の1人岡嶋八十右衛門は実弟である。

[参考資料] 『実証 赤穂義士』 佐々木杜太郎著 新人物往来社
長久寺 長久寺は1579年(天正7年)豊臣秀頼の武運長久を祈るため、淀君の命で建立されたと伝わる。
創建以来、度々の火災に遭うも、本堂は被災を免れ、
1963年(昭和38年)まで存在したが、道路拡張に伴い、取り払われた。境内の大半が縮小され、鉄筋造りのお寺に生まれ変わり、現在に至っている。


原惣右衛門の墓は『刀峰原元辰/妙孝婦原氏』の合墓である。痛みがひどく下の部分が補修されている。
妙孝婦原氏は惣右衛門の娘で1716年(享保2年)の没。この墓は娘の子供(田中氏)が建てたと伝わる。
原惣右衛門の墓-1
原惣右衛門の墓-2 原惣右衛門の一族の墓。惣右衛門の右隣が母の墓で『圓寂 隋仙院妙順霊尼・元禄15年壬午 8月11日』とあり、墓はほとんど痛んでいない。惣右衛門が建立したと伝わる。左側の墓は『田中氏』の文字が見え、娘の子孫の墓と思われる

原惣右衛門の墓-3

 1905年(明治38年)当時の
 住職が建てた墓標。
 『原惣右衛門元辰母子の墓』と
 ある。

史跡-071/TTL-305

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