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史 跡
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大坂城遺跡 所在地:
ドーンセンタ:大阪市中央区大手前1丁目
追手門学園:大阪市中央区大手前1丁目
大手前高校:大阪市中央区大手前2丁目
日経新聞社:大阪市中央区大手前1丁目 
ちょっと旧聞に属するが、昨年(2003年)12月、大阪府警本部の新築工事現場から、豊臣時代の大坂城の三の丸堀跡と思われる遺跡が発見されたとの新聞報道があったが、豊臣時代の大坂城三の丸は1598年(慶長3年)に大坂城防御強化のために作られている。しかし、1614年(慶長19年)に大坂冬の陣の講和条件として徳川家康に取り壊されてしまった。
 以前からも、三の丸と言われている辺りからは、ビルの工事の際、地下から豊臣時代の石垣の遺構が発見されている。これ等は地中から掘り起こされ、連場に復元されているところもあり、尋ねて見ることにした。
  余談だが、上記の大阪府警本部の工事現場の発掘状況の現場写真を見る機会が有ったが、無数の鉄の杭(と、それ以前の建物の基礎のためのコンクリート杭)が打ち込まれた間を縫うように、発掘調査が行われており、偶々杭に触れなかったために残っている遺跡も見られ、大阪の重要な文化財が、公共の工事のために破壊されていく姿を目の当たりに見る感がした。
何故、杭を打つ前に発掘調査が行われなかったのか、大阪府の文化財保護の姿勢に疑問を禁じえなかった。為政者には、壊した文化財は二度と元には戻らないことを肝に銘じて欲しい(当たり前のことだが)。

大坂城石垣の復元(ドーンセンター)
大坂城遺跡(ドーンセンタ) ドーンセンタ北側にある大坂城石垣の移築復元。
1989年(平成元年)大阪府立女性総合センタ(ドーンセンタ)の建設に伴う発掘調査で、地表より、約2m下のところで野図積みの石垣が東西約21mにわたって発見された。
現地の説明板に「現在の高さは最高で3.3mだが崩れ落ちている部分もあり、高さは5m以上と推定される。石は、生駒山系と六甲山系の花崗岩が用いられている」と、あった。

大坂城石垣の復元(追手門小学校) 大坂城遺跡(追手門小学校東門)


追手門小学校の東門の傍に復元されている石垣。
1979年(昭和54年)同校の校舎建設の折、敷地内から豊臣時代の野図積みの石垣が発見された。



工事現場から出た三の丸遺跡(大手前高校
大坂城遺跡(大手前高校) 大手前高校の通りに面した塀にも、校内の工事現場から、三の丸の遺跡が出たことを解説したパネルが取り付けてあった。
これによると新校舎建設に伴い1986~89年(昭和61年~平成元年)の間、発掘調査を行ったが、その結果、金箔押瓦など多量の遺物とともに、城内の建物群が発見されている。

大坂城石垣の復元(日経新聞大阪本社)
日経新聞大阪本社の東北側、寝屋川に面して復元されている石垣。
1975年(昭和50年)該社の新築工事の際、地下から発見されている。東西に約70m余りが残存していた。
但し、この石垣は三の丸の遺構とは違い、発見された石垣が、現在の大阪城の石垣と同じ瀬戸内産の石材で、刻印されている大名の家紋から、1620年(元和6年)大坂城再築のころに、旧大和川左岸の護岸用石垣として築かれたものと推定されるとのことである。大坂城遺跡(日経新聞社)-2
  
 本社ビルの南側の通りに復元
 されている石垣。
大坂城遺跡(日経新聞社)-1

史跡-055/TTL-257

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