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・05/4/22
玉生堂跡の写真追加
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大阪の私塾-2 (3) 所在地:
明誠舎跡:大阪市中央区島之内1丁目
泊園書院跡:大阪市中央区淡路町1丁目
百園塾跡:大阪市中央区上本町西5丁目
双松岡学舎跡:大阪市福島区福島1丁目
玉生堂跡:大阪市西区南堀江3丁目
大阪市内にある私塾跡の石碑です。

心学明誠舎跡
心学明誠舎跡 大阪市中央区島之内1丁目、堺筋に面して建てられている「心学明誠舎跡」の碑。
心学は石田梅岩(1685〜1744年)が、1729年(享保14年)京都で 唱えた庶民を対象とした教育運動である。人間としての普遍的道徳を、平易な道話の形式で講義したので非常な人気を集め、全国に広がった。
 大坂の明誠舎は、梅岩の孫弟子の大坂町人三木屋太兵衛こと井上宗甫によって1785年(天明5年)に開かれたもので、1938年(昭和13年)まで当地にあった。

泊園書院跡 泊園書院跡


大阪市中央区淡路町1丁目にある「泊園書院跡」の碑。
泊園書院は近世大阪の学問所で、中井一族による懐徳堂、緒方洪庵の適塾と並び称された私塾である。
藤沢東がいが1825年(文政8年)中船場町に漢学塾を開いた。 一時中断はあるがその子、南岳が跡を継ぎ、孫の黄鵠・黄坡ら4代、140年にわたって主宰され、大阪の文教発展に大きく貢献した。
その間に蓄積された2万冊余の蔵書は、現在、関西大学に泊園文庫として保存されている。

東がいの[がい]の字は[田偏に亥]。



百園塾址
百園塾跡-1 大阪市中央区上本町西5丁目にある「敷田年治先生百園塾址」の碑。敷田年治は近世大坂国学界の逸材と言われた人物。
1817年(文化17年)豊前・敷田村に生まれる。
1853年(嘉永6年)江戸に遊学し、「和学講談所」の教授となる。後年、現在の皇學館大学の創設に関る。教頭となり、伊勢に赴任するが、病により河内に戻り、 1888年(明治21年)大阪堀江に私塾「百園塾」を開く。
著書は「古事記標註」、「国史姓名録」、など。
1902年(明治35年) 85歳の天寿を全うした。

百園塾跡-2
 敷田年治の孫にあたる住吉大社
 宮司の敷田年博氏の揮毫による
 碑文が傍に建てられている。
 この地には、1897年(明治30年)
 移ったとある。

双松岡学舎跡
大阪市福島区福島1丁目、地方合同庁舎前の田蓑橋詰に建っている「双松岡(そうしょうこう)」の石碑。
双松岡学舎は、松本奎堂(けいどう)が、1861年(文久元年)昌平黌の同学、松林廉之助岡千仞らと創設した。(塾の名は松本・松岡の2人の松と岡から採っている) 尊皇攘夷を鼓吹し、倒幕運動家の集合場所という疑いから、大坂町奉行所にも危険視され、翌年の文久2年、わずか半年で閉鎖されている。
碑は1943年(昭和18年)の建立。

松本奎堂:1832年(天保2年)三河・刈谷に生まれる。昌平黌に学び、1859年(安政6年)名古屋石町で塾を開いた後、大坂に移った。
1863年(文久3年)8月、孝明天皇大和行幸の詔が出たのを機に藤本鉄石吉村寅太郎らと天誅組を組織して総裁となり、侍従中山忠光を奉じて出京したが、 政変によって形勢急変し、行幸は中止となった。
紀伊、彦根藩兵により追討され、十津川郷に南下し郷士と農兵の参加を募った。しかし諸藩兵の攻撃をうけ、吉野郡鷲家口で自刃した。享年33歳であった。
双松岡跡

玉生堂跡
玉生堂跡 大阪市西区南堀江3丁目、高台橋公園内に建つ「藤井藍田 玉生堂跡」の石碑。
1816年(文化13年)大坂で生まれた藤井藍田は文人で勤皇志士であった。
家業の呉服と藍を商う「綿屋」を継ぎながら、その傍ら
田能村竹田に画を学び、広瀬淡窓に詩文を学んだ。
国事に芽生えた藍田は勤皇の志士と交わり、長州・薩摩を巡歴。1856年(安政3年)帰阪後、この地に私塾玉生堂を開いた。塾は倒幕の志士の溜まり場となっていたため、1865年(慶応元年)新撰組につかまり、天王寺区の万福寺に幽霊され、獄中にて没した。
墓は天王寺区の統国寺にある。

(藍田の経歴は「現地解説板:大阪市教育委員会」による)

史跡-070/TTL-303

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