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史 跡
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赤穂義士の墓所へ
堀部弥兵衛・安兵衛の墓 所在地:大阪市北区堂島3丁目 「浄祐寺」境内
最寄駅:JR環状線、阪神「福島」下車、出入橋交差点の近く。
交差点に行先案内板が建っており、これに従うほうが間違いなく辿り着く
矢頭長助教照(やこうべ ちょうすけ のりてる)とその息子の右衛門七教兼(よもしちのりかね)の墓が、大阪は北のビルが林立するビジネス街の中にある。
 父の長助は中小姓、勘定方を務め、25石5人扶持であった。赤穂城開城のとき、大石内蔵助を助け、会計の残務処理を良くこなし、信頼が厚かった。塩田浜方への貸付金の回収にも努め、これが後に討ち入りの資金となった。長助は最初から義挙に参加したが、途中重病に罹り志半ばの1702年(元禄15年)8月、45歳で死亡した。
 その時、右衛門七は17歳で部屋住の身分であったが、父の意志を継ぎ、義挙に参加した。討ち入りに際しては、亡父の戒名を懐中にし、父子ともに志を遂げる覚悟で、活躍したと伝わる。 大石主税に次いで若く、美少年であったといわれ、討ち入り後に義士の中に男装の女がいたという噂が流れたほどである。

[参考資料] 『実証 赤穂義士』 佐々木杜太郎著 新人物往来社
浄祐寺山門 浄祐寺山門。高速道路とビルに挟まれた谷間に在るが、周りの喧騒に比べ、静かなたたずまいである。
境内の一角矢頭父子の墓が並んで建っている。
右側が父長助の墓。正面は「矢頭長助之墓」、右側面には
「宝暦12年壬午上巳日 讃州高松儒学菊池?撰文、讃州高松隠士河田正?建」とあり、左側面にはその撰文が記されている。(?)の部分は破損しており、セメントで補修されているため判読が困難)
左側は右衛門七の墓。正面には「刃擲振剣信士」と戒名が彫られている。
矢頭父子の墓
矢頭右衛門七顕彰碑 本堂の前に矢頭右衛門七教兼の顕彰碑「矢頭教兼碑」が建てられている。
顕彰碑は元は曽根崎奥之坊に建てられたが、文政年間に焼損した。この碑は幕末に再建され、梅田東福寺別院に建てられたのを、後に墓のある当寺に移されている。

史跡-076/TTL-310

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