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史 跡
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[更新記録]
・05/2/22 鞆呂岐神社寄進の鳥居追加
赤穂義士の墓所へ
村松喜兵衛の墓 所在地:
心願寺:門真市下島町
鞆呂岐神社:寝屋川市木屋町
村松喜兵衛秀直は江戸詰扶持方奉行・宗門改で禄高は25石5人扶持。江戸の名字帯刀を許された町人の家に生まれた。初め作州の堀田上野介に仕えていたが、同家中の村松九太夫が浅野家に仕えることになり、その婿養子となって村松家をついだ。
 喜兵衛の長男は三太夫高直、次男は政右衛門といい、三太夫は部屋住の身分であったが、赤穂城明け渡しの時から義盟に加担し、最後の討入りまで父と行動を共にしている。
 江戸の地理に明るい村松父子は初め南八丁堀、後には本所に町家を借り、喜兵衛は町医者を名乗り、敵方の情勢偵察を任じている。本懐後切腹したときの年齢は父喜兵衛は63歳、三太夫は27歳であった。
 弟の政右衛門は、初め浅野内匠頭舎弟の大学長広に仕えていたが、事変後は旗本小笠原長門守に仕えた。義士一同切腹の時、15歳以上の遺族男子は遠島申し付けられ、政右衛門23歳は伊豆大島に流罪となっている。しかし、3年後の1706年(宝暦3年)には僧になることを条件に赦免されており、一旦は出家したが、後、還俗したとも伝えられ、 以後の消息は知られていない。
 この村松喜兵衛の墓を建てたのは、政右衛門の子孫かもしれない。もと、この墓があった寝屋川木屋の真言道場には村松喜兵衛の子孫が留守居として住み着き、祖先の墓を供養していたと伝わる。

[参考資料] 『実証 赤穂義士』 佐々木杜太郎著 新人物往来社
心願寺 心願寺は照法山と号し、真宗大谷派の寺院。2001年(平成13年)に新築落慶式が行われている
村松家の墓はもとは寝屋川の木屋にあった真宗道場にあったが、明治に初めに廃寺となり、建物が心願寺に買収されたとき、建物と共に運ばれてきている。
村松喜兵衛の墓-1 村松喜兵衛の墓その拡大
心願寺境内に建つ「村松喜兵衛の墓」(右側奥の赤い石:右の写真はその拡大)。
墓のある場所のせいか、墓石というより記念碑的な感じがする。墓石には「播州赤穂家中 四十七人之内 村松喜兵衛秀直 四代之孫 村松喜兵衛源高次」とある。
鞆呂岐神社寄進の鳥居-1 鞆呂岐神社寄進の鳥居その拡大
元「村松喜兵衛の墓」があった寝屋川市木屋町にある鞆呂岐神社には墓を建立した四代孫村松喜兵衛源高次が寄進した鳥居が同社境内奥宮の社の前に残されている。
鳥居の右側の柱には墓石と同じような銘「播州赤穂城主 浅野長矩家中四十七人之内 村松喜兵衛秀直四代之孫 村松喜兵衛源高次」が彫られている。
鳥居の横の像は寝屋川に残る民話「鉢かづぎ姫」で寝屋川市内にある各史跡の「案内」役でもある。この案内板では鳥居を寄進した村松喜兵衛源高次は村松喜兵衛秀直の遺児、政右衛門の子孫としている。

史跡-084/TTL-341

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