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史 跡
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大織冠神社 所在地:茨木市西安威2丁目
最寄駅:JR東海道線「茨木」下車、阪急バス「追手門学院」行で
終点まで、バス停から学校の前の坂を約300m
藤原氏の祖、藤原鎌足の墓であった伝わる「大織冠神社」は追手門学院に隣接した住宅地の中にある。大織冠とは、647年(大化3年)に制定された最高冠位のことで、この冠位を与えられたのは、669年(天智天皇8年)に死の前日に賜った、中臣鎌足(この冠位とともに藤原の姓も賜った)ただ1人であり、鎌足その人を指す異名でもある。
 現地の解説板によると『平安時代の中頃から「藤原鎌足の墓所は初め、摂津の安威にあったが、後に大和の多武峯に改葬された」との説があり、江戸時代になり、この塚をあてるようになった』と、ある。
 藤原鎌足の墓については、鎌倉時代に著された『多武峯略記』の引く「荷西記」に、唐に留学していた鎌足の長男定慧が帰国後、摂津島下郡「阿威山」の墓に葬られた鎌足の遺骸を多武峯(奈良県桜井市)に改葬したとある。
 ところが、1934年(昭和9年)に高槻市にある阿武山古墳山頂の墓から、乾漆器に納められた「金糸をまとった貴人」の遺骸が発見され、これが鎌足ではないかと、当時の新聞にも報道された。
 それから半世紀たった1987年(昭和62年)に、この時遺体を撮影していた、X線フイルムが見つかり、画像を分析した結果、鎌足の死因とされる落馬を物語る骨折の跡や、大織冠と思われる冠や玉枕などが撮影されており、鎌足の墓に間違いないと報道されたことは、まだ記憶に新しい。現在では鎌足の墓は「阿武山古墳」であるとの説がほぼ確実である。

[参考資料] 『日本歴史地名体系(大阪府編)』 平凡社
         『現地解説板』 茨木教育委員会
大職冠神社-1 山頂に向かい階段がある。この手前の所まで、住宅地になっている。
階段の中ほどにある鳥居は文政7年(1824年)建立の銘がある。
墓は丘陵頂部に築造された円墳で、南側に開口部がある横穴式石室。
現地の解説板によるとこの墓は、石室の構造より古墳時代後期(6世紀中頃)としており、鎌足の時代よりは1世紀は遡ることになる。
大職冠神社-2
将軍山古墳 山頂の鎌足塚(上の写真)のすぐ横にある「将軍山古墳(竪穴式石室)」。
もとは鎌足塚の南側の山頂にあった前方後円墳で、宅地造成のため破壊されたものを、現地に移し復元したものである。この古墳は将軍塚より更に古く、古墳時代前期(4世紀後半)のものとしている。

史跡-089/TTL-358

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