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史 跡
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円珠庵へ
契沖史跡 所在地:大阪市東成区大今里4丁目 「妙法寺」
最寄駅:地下鉄千日前線「今里」下車、千日前通りを東へ、
新名眼科の手前の道を北へ入る。
大阪市東成区にある妙法寺は近世国学の祖と言われる契沖が、1679年(延宝7年)から1690年(元禄3年)まで住職をし、また修学の道場としても有名で、1949年(昭和24年)大阪府顕彰史跡に指定されている。
 契沖の父は尼崎領主青山氏仕えた下川善兵衛元金といい、契沖は その第三子として1640年(寛永17年)に生まれ、11才のときにここ妙法寺で出家して仏門に入り、その後高野山で修業にはげみ、40歳で妙法寺住職となってから本格的に国学研究の学問に専念している。 徳川光圀の委嘱により、有名な「万葉代匠記」やその他多くの著作を完成させた。
 1690年(元禄3年)に母が当寺で亡くなったのを機に、妙法寺を弟子の如海に譲り、 自分は現天王寺区飼差町の円殊庵に移り、俗務に煩わされることなく、ひたすら著作と研究に没頭した。1701年(元禄14年)62才で没した。
 彼の墓は終焉の地である円珠庵に建てられているが(非公開)、ここ妙法寺境内には契沖の供養塔とその母の墓がある。

[参考資料] 『現地説明板』
妙法寺山門 妙法寺は聖徳太子の創建と伝えられる。
宝歴の頃(1751~64年)の妙法寺は一時衰退していたが、泊中法典和尚が住職し大黒天信仰を鼓吹してより時運隆盛になり「南にては今宮のゑびす、東にては今里の大黒」と喧伝され、庶民の群参で賑わったと伝えられている。
妙法寺大黒堂

 大黒天が祀られている
 お堂。
契沖の墓 契沖家族と師の墓
境内の一角にある契沖の墓(右端)と、その左側には師の丯定(かいじょう)、母、兄の墓が並んでいる。
旧奈良街道道標 旧奈良街道
妙法寺横を通る道は松尾芭蕉が最後の旅をした旧奈良街道である。現在も残っている道標は江戸時代後期の文化3年(1806年)に建てられたもので、上部に明かりを灯す部分がくり抜かれている。

史跡-110/TTL-433

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