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史 跡
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[更新記録]
・06/10/31
写真と供養墓の説明追記
北畠顕家の墓(1)へ
北畠顕家の墓(2) 所在地:堺市西区浜寺石津中5丁
最寄駅:阪堺線「石津」下車、西へ50M、太陽橋を南へ渡ったたもとにあり
北畠顕家の墓は大阪市阿倍野区にもあるが、彼の父の北畠親房が著した「神皇正統記」などには顕家は1338年(延元3年)5月22日朝、1万8千の高師直軍と戦い、この摂津国石津で戦死し、21歳の若い生涯を終えたと伝えている。
 阿倍野に在る顕家の墓は江戸時代の国学者並河誠所が政治的な動きで、北畠顕家の墳墓と比定したが、この石津川の墓は1936年(昭和12年)顕家公600回忌に当り、追福のため、町の有志が五輪塔を建て、供養としている。
 この墓地の前の道はかっての幹線道路である紀州街道であるが、現在では国道26号線や高速湾岸線にその座を明け渡しており、現在は車の交通量も比較的少なく、逆にお墓にとってはこのことが幸いしているようだ。

[参考資料] 現地に建てられていた『供養塔建立の経緯』碑
太陽橋(堺市) 石津川に架かる太陽橋の対岸橋詰に、木が茂っているところが北畠顕家の墓がある。
雨の中傘を差して自転車を乗っている人を多く見かけた。。
中央の五輪塔が北畠顕家の供養墓。
墓地は町会の人々により、きれいに手入れがされている。
供養墓の手前に『この付近北畠顕家奮戦地』の碑が建つ。碑は1919年(大正8年)大阪府が建てている。
北畠顕家の墓全景
慰霊碑 戦死者供養墓
慰霊碑 正徳3年建立の供養塔
碑には北畠顕家の奮戦の様子とこの地に五輪塔が建てられた経緯が書かれている。
この戦いで顕家に従い、家臣108人と共に戦死した南部師行の33代子孫の男爵南部日実氏が揮毫している。1936年(昭和12年)の建立。
「南無阿弥陀仏」の碑は戦死者の供養のために建てられたものか?
碑の裏面には「正徳3年(1711年)建立、行家」の銘があり、古くからこの地が合戦の場所であったと伝わっていたものと思われる。
供養塔の裏面行家の部分の拡大 [追記]

たまたま、手元にあった『大阪歴史散歩(徳永真一郎著)』を読んでいると、碑の裏面の行家は家ではなく、行もうと刻まれているとのことであった。(もうの字は蒙古の蒙の草冠がない)
念のため裏側を撮った写真をよく見ると、その通りであった。
行もう(こうもう)の意味は仮に埋葬するということで、これは当時徳川幕府の目を恐れた人たちが、こういう形で顕家の霊を弔ったらしい。

別の話として、源義経の叔父の源行家という人が、源頼朝に嫌われ、この石津で殺されたとの話があり、この碑は「源行家の墓」と信じられて、この地に植えられていた老松を「行家の松」と呼ばれていたらしい。

史跡-117/TTL-487

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