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史 跡
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久米田寺へ
橘諸兄の墓(2)へ
橘諸兄の墓 所在地:岸和田市池尻町 久米田寺に隣接している。
最寄駅:JR阪和線「久米田」下車、徒歩約10分
岸和田市池尻町にある久米田寺の周辺に多くの古墳が存在するが、そのうちの1つ貝吹山古墳は橘諸兄の墓と伝わる。
 これは橘諸兄は久米田寺の壇越と考えられていたことからの伝承と思われ、1976年(昭和51年)の久米田寺金堂解体修理の際発見された墨書縁起によれば、すでに明和年間(1764〜72年)には当古墳は橘諸兄の墓であるとする伝承が成立していたことが確認されている。
 1971年(昭和46年)の外形調査では墳丘は全長135m、後円墳径82m、前方部幅(推定)64m、墳丘の周囲には池や水田畔痕跡から幅20m前後の周濠が巡らされていたと推定されている。
 また、この調査のときに菅玉、鉄片、土器などが見つかっている。
 なお、この古墳を「橘諸兄の墓(1)」としたが、現在私の住んでいる近くの京都府綴喜郡井手町にはこの橘諸兄に関する伝承が墓も含め、多く残されており、「橘諸兄の墓(2)」として別途レポートしたい。

橘諸兄:奈良時代の政治家。684年(天武13年)父は美努王、母は県犬養三千代、敏達天皇五世の孫。
光明皇后は異父妹にあたる。初め葛城王と称した。右大臣、左大臣を歴任。
大伴家持と親交があったとされ、『万葉集』に7首の歌を残す。757年(天平勝宝9年) 74歳で死去。
[参考資料]  『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
久米田寺側の方から貝吹山古墳を望む。


後円墳の頂上にあった三角点。
古墳の立ち入りは特に制限していない。登り口とおぼしき所に『史跡 橘諸兄塚』と半分消えかけた杭が打たれ
ていた。

史跡-128/TTL-535

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