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史 跡
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・12/08/14 最寄駅誤り訂正  



アテルイの首塚 所在地:枚方市牧野阪2丁目 牧野公園内
最寄駅:京阪本線「牧野」下車、駅から東南約5分、片埜神社隣り
片埜神社の参拝を終え、隣接する公園に立ち寄ったところ、公園の中央にある真新しい石碑が目に飛び込んできた。
 この塚には『伝 阿弖流為 母禮 之塚』とあり、傍らの説明板には、「802年(延暦21年)4月、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の首長アテルイと副将モレが同族500人を引き連れて降伏したことを朝廷に報告し、7月に2人を伴い帰京した。田村麻呂は2人の助命を朝廷に嘆願したが聞き入られず、2人は河内国で処刑された。」とあり、この地がそのゆかりの地としている。
  『日本紀略』には河内国植山で処刑されたとあり、この植山は、現在の宇山に比定されるとのことである。(宇山は江戸時代の初め、旧名上山から宇山に地名が変更されている。)
 アテルイは、8世紀末から9世紀初めにかけて、東北地方で活躍した蝦夷のリーダーで、長期抗戦で何度も朝廷軍を打ち破ったと伝わる。
 大和朝廷から見れば彼らは服従もしない抵抗勢力だったかも知れないが、立場を変えれば、大和朝廷は侵略者である。これを有無を言わさずに処刑するとは、何時の時代も征服者は身勝手なものである。
 そのような中で、田村麻呂がアテルイたちの助命嘆願したとの話から、後の世の人は、日露戦争の時の乃木将軍ステッセル将軍のように、彼らの友情物語として話を今日まで伝わっているのは、一縷の救いでもある。
 たまたま、6月のはじめのニュースで、「京都市山科区にある西野山古墓がその埋蔵物や平安時代の文献から見て、この墓が田村麻呂の墓であると判断される」との報道があった。アレルイの新しい塚の建造といい、田村麻呂の墓の発見といい、偶然として片付けるには不思議な縁である。

[参考資料] 『現地解説板』 
アテルイの首塚-2 公園の中央部に土が漏られた箇所があり、大きな木の根元に自然石の墓らしきものが建てられ、花が供えられていた。
地元では昔より、この塚を「蝦夷塚」と呼んでおり、アレルイの首塚であると伝えられているが、しかしこの説について、眉唾ものとして、全く取り合わない人たちもいる。
新しく建てられてた「アテルイとモレの塚」。2007年(平成19年)3月の建立。 アテルイの首塚-1
アテルイの首塚-3 アテルイとモレの塚の拡大。
この地は民間伝承のためか、枚方市の史跡にも指定されていない。
現地の説明板も前面に鎖でつながっている簡単なものであった。

史跡-137/TTL-572

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