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史 跡
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二十一人討死の墓 所在地:大阪市福島区玉川4丁目 極楽寺内
最寄駅:JR環状線「野田」OR地下鉄千日前線「玉川」下車、
地下鉄「玉川」駅からは東へ約200M
1533年(天文2年)8月9日当地を訪れた本願寺第10世証如上人は、近江の佐々木(六角)定頼の手勢に不意をつかれた。このとき、本願寺第8世蓮如上人の教化を受けていた野田・福島の門徒衆が証如上人を守護せんとして戦い、証如上人は小船に乗り、無事泉州方面に逃れたが、この戦いで信徒21人が犠 牲になった。
 後に、討死した21人衆の菩提を弔うために建立されたといわれる極楽寺の境内には「21人討死の墓」がある。
蓮如上人:1415年(応永22年)〜1499年( 明応8年)浄土真宗中興の祖。本願寺8世。父は本願寺7世存如。1465年(寛正6年)比叡山宗徒の襲撃に遭い、京都東山大谷を出て1471年(文明3年)越前吉崎に赴き、北陸地方を教化。更に山科、石山(大坂)に本願寺を建立、本願寺を真宗を代表する巨大な宗門に成長させた。
証如上人:1516年(永正13年)〜1554年(天文23年)本願寺10世。蓮如の曾孫、父は円如(本願寺9世実如の子)。祖父実如の死去により、10歳で本願寺10代門主となる。
 1532年(天文元年)管領細川晴元が畠山、筒井、三好氏などの大名と争ったとき、本願寺は晴元の要請を受け近畿の門徒10万人を動員し、晴元を支援した。晴元は戦い勝ったものの、本願寺の実力を恐れ、日蓮宗徒や六角定頼と手を組み、本願寺の本拠地であった山科本願寺を攻撃し、これを焼き討ちにした。山科を追われた証如は大坂石山本願寺を教団の拠点とした。

[参考資料] 『現地説明碑』
          『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
21人討死の墓 極楽寺境内に建つ「21人討死之墓」
極楽寺は21人の墓所に建立された道場が当寺の始まりと伝える。
本願寺東西分裂の時、野田衆は東本願寺(真宗大谷派)に属し、1674年(延宝4年)現寺号を称した。
1717年(享保2年)御坊同様に扱われ、野田御坊とも呼ばれる。
毎年4月8、9日には討死した21人の法要が営まれ、証如上人の御文が披露される。
極楽寺本堂 極楽寺證如上人旧跡灯篭
極楽寺本堂。江戸時代に建てられたが先の大戦にも
被害を受けずに現在に至っている。本堂前のソテツは樹齢300年は優に超えるとのこと。
極楽寺の塀外に立つ「證如上人御旧跡」と刻まれた灯篭。
極楽寺證如上人旧跡灯篭 円満寺山門
 極楽寺と同じ玉川4丁目にある円満寺山門(右の写真)と山門をはさんで向かい側に「證如上人御由緒」と刻まれた灯篭が建つ(上の写真)。
 円満寺は浄土真宗本願寺派に属し、1717年(享保2年)西本願寺門徒により21人の菩提を弔うために創建され、極楽寺と同様、野田御坊と称した。
 毎年5月8日には討死した人々のための法会が営まれ、証如上人の御消息が披露される。
玉川コミュニティセンターの一角に建つ「二十一人討死之碑」。
この碑は裏面の碑文(大半は剥離しており判読できない)によれば1940年(昭和15年)に建てられている。
玉川コミュニティセンターに建つ碑
野田城址  
地下鉄「玉川駅」出口に建つ碑 極楽寺山門に建つ碑
 地下鉄「玉川駅」の2号出口、玉川交差点近く(上左の写真)と極楽寺山門前(上右の写真)に建てられている「野田城址」の石碑。
 野田城は1531年(享禄4年)に細川晴元三好元長が対立抗争した際に、三好方の浦上掃部がこの地に砦を築いた。その後、畿内勢力回復を図る三好3人衆が野田城を増築させて籠城し、それに呼応し、石山本願寺が信長打倒の武装決起を行ったが、1576年(天正4年)織田信長の猛攻により落城。以後、信長の石山本願寺攻略の重要拠点となった。
 現在は城郭を示すものは何も無いが、この辺りは明治の初め頃まで旧字名が城之内(玉川交差点付近)、弓場(恵比須神社付近)などと呼ばれていたとのことで、旧名奥の町(極楽寺のあるところ)が城の中心部と推定される。

史跡-151/TTL-601

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