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史 跡
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大坂 市場跡 堂島米市場跡:大阪市北区堂島浜1丁目
雑喉場市場跡:大阪市西区江之子島1丁目
天満青物市場跡:大阪市北区天満3丁目
江戸時代、堂島米市場・雑喉場魚市場・天満青物市場は大坂の三大市場と呼ばれ、「天下の台所」を支え、その名に相応しい賑わいであったといわれ、江戸時代に出版された『浪華の賑ひ』や『摂津名所図会』からも、窺い知ることが出来る。
 現在、その地には記念像や石碑が建てられているが、それらは「ひっそりと」という形容詞が相応しく、昔日の面影はその全くない。そのギャップはかっては日本経済を支えていた大阪がその地位を東京に明け渡し、一地方都市に甘んじている現状を象徴しているようでもある。

[参考資料] 『現地説明板』
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社

堂島米市場跡 所在地:大阪市北区堂島浜1丁目
最寄駅:京阪本線OR地下鉄「淀屋橋」下車、淀屋橋、大江端を渡り
西へ、「ANAクラウンプラザホテル」前、中之島ガーデンブリッジの北詰
 江戸時代、諸藩はこの中之島周辺に蔵屋敷を置き、領国から送られてきた蔵米や国産品を換金したが、この蔵屋敷の販売事務を町人(掛屋)が代わって行うようになり、町人蔵元が出現した。蔵米の取引を最初に開いたのが、淀屋の2代目个庵といわれ、そのため「淀屋の米市」と称されていた。1705年(宝永2年)淀屋が闕所になった後、堂島の地に米市場が移転して堂島米市場が成立した。
その後江戸商人による公認の市場開設などあったが、1730年(享保15年)公認の帳合米市場である「堂島米市場」が発足した。
 江戸時代、大坂のほかに江戸、京都、大 津、下関にも米市が立っていたが、堂島米市場で立った相場で取引がなされ、ここで立った相場が全国の米相場の基準とされた。
 この取引の手法は、大阪証券取引所を始めとする、世界各地の組織化された商品・証券・金融先物取引の先駆をなすものであり、先物取引発祥の地とされている。
 1876年(明治9年) に「堂島米穀取引所」と改称され、1939年(昭和14年)に廃止された。
堂島米市場跡
堂島米市場跡に建つ記念碑。
この像は1953年(昭和28年)彫刻家横江嘉純氏により製作され、(昭和30年)堂島米市場跡建設により、寄贈された。
大江橋から堂島川に架かる中之島ガーデンブリッジを望む。阪神高速池田線が左の写真の記念像の上を跨いでいる。

雑喉場魚市場跡 所在地:大阪市西区江之子島1丁目
最寄駅:地下鉄「阿波座」下車、西へ約
 豊臣時代、魚商人は生魚、塩干魚の区別無く天満・鳴尾町付近に集まっていたが、後に北船場に移って天満町・靭町を開発した。
1618年(元和4年)生魚商人らは上魚屋町(現在中央区)に移住し、更に1679年(延宝7年)雑喉場町に移転した。
 雑喉場町辺りはもとは鷺島と呼ばれた海岸で、1617〜20年(元和3〜6年)江戸堀川、京町堀川の開削によって形成された土地であるが、上魚屋町の生魚問屋が出張所を設け、生魚の腐 敗しやすい3月から10月まで取引を行った。そのため多数の魚仲仕らはこの付近に群居し、ジャコ(雑魚)を販売する 者も集まって、鷺島の名は次第にすたれ、雑喉場と呼ばれるようになったという。
 その後、上魚屋町から雑喉場町に本店を移す問屋が増え、1682年(天和2年)頃には、上魚屋町のすべての生魚問屋が雑喉場町に移住し、大坂で唯1つの生魚市場となった。
 1771年(安永3年)問屋株が免許されて、大坂市中で消費される生魚取引の独占的地位が認められるようになり、1931年(昭和6年)11月大阪市中央卸売市場に吸収合併されるまで活況を呈した。
雑喉場市場跡 特別擁護老人ホームの前に建つ「雑喉場魚市市場跡」の碑。
本町通のマンションの前に建つ「雑喉場橋」の碑。
江戸時代、雑喉場町は百間堀川に面した地域にあり、雑喉場橋は百間堀川を挟み江之子島との間に架けられていた上之橋、下之橋の内、下之橋が1875年(明治8年)に大阪で5番目の鉄橋として架けられたが、1954年(昭和29年)百間堀川の埋め立てで姿を消した。
木津川のたもとに建つ「木津川橋」の碑。
木津川橋は1867年(慶応4年)川口と江之子島を結ぶ新大橋として架けられた。
幕末から明治に書け、川口には税関が設置され、居留地が設けられ、1874年(明治7年)には、江之子島には大阪府庁が建てられるなど、当地は行政の中心であった。

天満青物市場跡 所在地:大阪市北区天満3丁目
最寄駅:京阪本線「天満橋」OR地下鉄「天満」下車、天満橋を渡り、
北詰左手に「南天満公園」あり
 大坂における青物市場の始まりは、大坂城築城以前の石山本願寺の門前で、信者に雑貨や野菜を提供したことが始まりとされる。
 豊臣秀吉の大坂城と大坂の町が建設されたのちは、大川に架かる京橋南詰の土手下で市が行われた。大坂夏の陣後、何度か場所を変えながら1653年(承応2年)に、現在の南天満公園付近に落ち着き、市場が開かれ、大川に面する水運の便から、大阪三郷周辺各地から青果物がたくさん集められて賑わいを見せたという。
 当市場は大坂市中の青物などの供給を独占的に握り、新市や新規店などに対し反対の訴願を度々行った。
 大阪で唯一の青物市場であった当市場も1931年(昭和6年)に廃止され、下福島に出来た大阪中央卸売市場に包括された。
青物市場跡 南天満公園の片隅に建つ「天満青物市場跡」の石碑。
石碑の側面には『(天満青物市場は)、昭和に至り変遷があったが昭和20年戦災で廃絶した』と記されており、大阪中央卸売り市場に包括された後も、市場そのものはこの地でも存在していたらしい。
上記の「天満青物市場跡」の石碑の近くに建つ「淀川三十石船舟碑」。日本民謡連合会が1984年(昭和59年)に建立。
淀川は江戸時代、京都と大坂を結ぶ水上交通の道として栄え、多いときには日に300隻が行き交い、大坂の基点となった「八軒家船着場」はこの対岸にあった。
左の「淀川三十石船舟碑」と同じく公園内の遊歩道に面して建つ「天満の子守唄」の碑。
1983年(昭和58年)の大阪天満ライオンズクラブの建立。

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