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史 跡
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寝屋長者屋敷跡 所在地:寝屋川市寝屋2丁目
最寄駅:JR学研都市線「星田」下車、駅前通りを西へ、
松本ハイツの辻を入る、約300m、不二鉄工所の前。
当地には古くから寝屋長者の伝説があり、室町時代の『お伽草子』に載る「鉢かづき姫」はその物語といわれ、町内には長者屋敷跡をはじめ長者にちなむ遺跡・遺物が残されている。
西蓮寺観音堂の十一面観音や正法寺の地蔵尊は寝屋の長者が信仰した仏と言われる。
 1659年(万治2年)松会堂蔵板写本『寝屋長者鉢かづき』は、寝屋の長者の備中守藤原実高は1279年(弘安2年)頃の人で、万治元年頃には屋敷の形は残っていたという。
[鉢かづき姫の物語]
 河内の国 、交野郡寝屋というところに備中守藤原実高という大変裕福な「寝屋の長者」と呼ばれている人が住んでいた。長者の夫婦仲は大変良く幸せな日を送っていたが、子どもに恵まれず、大和の国長谷寺の観音に祈願し、女の子を授かり、名前を「初瀬 」と名付けて大切に育てていた。
ところが初瀬姫が14才になったとき、奥方が病で臥せ、死を迎える前に初瀬を枕元に呼び寄せ、頭に大きな鉢を被せ、息を引き取った。
 その後、実高は後添いを迎えたが、心根の大変悪い女で実高との間に娘が生まれると、次第に初瀬をいじめるようになり、 遂には初瀬を屋敷から追い出してしまった。
 屋敷を追い出された初瀬は行くあてもなく、川に身を投げるが、 鉢のお陰で溺れることもなく、川に流されていると通りがかりの船に引き上げられた。また足の向くまま歩いていると、山陰三位中将に助けられ、湯殿番として働くこととなった。
 山陰三位中将の四番目の息子(宰相)とはお互い心ひかれ、二人は夫婦の約束をするが、宰相の兄や兄嫁たちが反対し、宰相の母から宰相の兄たちの嫁との嫁くらべをして勝てば二人の結婚を認めようという話が出された。
このままでは勝ち目のない二人は覚悟をきめて、こっそりこの屋敷を出ようと手に手をとったその時、今までどうしてもとれなかった初瀬の鉢が頭からぽろりと落ち、その鉢からは驚くばかりの金や着物などの宝物が山のように出てきた。鉢のとれた初瀬は美しさと優しさを兼ね備えたたとえようのない顔だちだった。
 二人は嫁くらべの場に臨んだが、初瀬は姿かたちだけでなく、琴をひいても、歌を詠んでも、文字を書いても優れ、誰ひとりかなう者はいなかった。この後、二人はみんなから祝福されて幸せに過ごしたという。
寝屋川市文化振興課ホームページの『鉢かづき姫の物語』を要約)

[参考資料] 『現地案内碑』 寝屋川市
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
寝屋長者屋敷跡 寝屋長者屋敷跡石標
 寝屋長者屋敷跡と伝わる場所は現在公園になっており、『鉢かづき姫物語』の碑や、長者屋敷の復元想像図などの案内板が整備されている。
 上記の[鉢かづき姫の物語]によれば「長者屋敷は東西12町、南北4町という広大な面積で、幾100坪の建物や10数坪の土蔵が立ち並び、近畿でも”長者の頭”といわれていた」とのことである。
寝屋長者屋敷跡への道標 集落の中を通る山根街道

道路工事で掘り起こした跡の部分的
なアスファルトの簡易舗装が、整った
町並みの雰囲気をぶっ壊している。
河内三十三所27番札所 西蓮寺」から寝屋長者屋敷跡へは旧山根街道を約800mほど行くが、寝屋の町並みは時代劇にでも登場しそうな屋敷が並んでいる。また、辻の角には鉢かづき姫の道標が建てられており、迷うことはない。
工場の塀に書かれた案内地図-1 工場の塀に書かれた案内地図-1
寝屋長者屋敷跡の前にある不二鉄工所寝屋事業所の塀には、この付近の史跡が描かれている。殺風景な工場の塀も工夫次第では、地元のPRに大いに貢献出来るという見本でもある。

史跡-157/TTL-634

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