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史 跡
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日羅公の碑 所在地:大阪市北区天満橋2丁目
最寄駅:JR環状線「桜ノ宮」下車、源八橋を渡る、大川右岸
日羅は、28代宣化天皇の時代(6世紀半ば?)に新羅が任那を侵略しようとしたとき、大伴金村の息子狭手彦(さでひこ)と共に任那へ行き、任那がなくなった後も、そのまま百済へ留まって帰化した日本人、阿利斯登(ありしと)の子供で、父親と一緒に百済に留まり、二位達率(だちそち)という極めて高い位まで昇った人物である。
 30代敏達天皇の詔で583年(敏達12年)帰国、任那復興策の意見を求められる。しかし、その内容は百済の筑紫侵攻策を暴露し、自身の祖国・百済を裏切ることとなり、結局、日羅は同行した百済の役人徳爾余奴に命を奪われてしまった。
 日羅は詔により、難波小郡西畔丘に埋葬されたが、この初葬の地がこの地であると伝わる。
 その後日羅の墓は数度の改葬の後、現在では父親の出身地である熊本県八代市坂本にあるという。
なお、八尾市に日羅が建てたという日羅寺がある。

[参考資料] 『現地説明碑』
日羅公之碑 「日羅公之碑」碑文
「日羅公之碑」は1955年(昭和30年)日羅公薫績顕彰記念会が建てている。 碑文は当時の大阪市長中井光次氏の書になる。
源八渡し跡の碑 「日羅公之碑」から数m離れたところに建つ「源八渡し跡」の碑。
この地は1936年(昭和11年)に減八橋が出来、渡し舟が廃止になるまで、船着場であった。
江戸時代から明治の中頃まで、両岸の堤に桜並木が続き、多くの見物人で賑わったという。
かっては与謝蕪村もこの渡しを渡っている。
現在では桜並木は、ひとつ下流にかかっている桜宮大橋(銀橋)辺りが桜の名所になっている。

史跡-164/TTL-687

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