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史 跡
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大和川 付替工事跡(1) 所在地:大阪府柏原市上市2丁目
最寄駅:近鉄大阪線「安堂」下車、すぐ
昨今のご当地検定ブームの中、大阪でも遅ればせながらこの6月に『なにわなんでも大阪検定』が実施されたが、多くの受験者があったと報道されており、大阪の認知度アップに大いに貢献したと思われる。
今回実施された上位レベルの2級の問題で、一番正解率が一番低かったのが「大和川の付け替え工事にかかった期間」を約1ヵ月、約8ヶ月、約4年、約8年の中から選ぶ問題で正解した人が19%であったという。
 奈良県の都祁高原を源をとする大和川は奈良盆地の水を集め、大阪平野へ流れ込み、現在は西に向けほぼ一直線で大阪湾に注いでいるが、かっては大阪平野に流れ出た大和川は、南から流れきた石川と合流し、北へと向かって流れ、大坂城近くで淀川と合流し、大阪湾には流れ込んでいた。
大和川が運んできた肥沃な土砂は農業の発達には大いに寄与した反面、大和川がもたらすたびたびの洪水被害は多くの人を苦しめてきた。
 この洪水被害を解消するために川の流れを変えるという、今から約300年前に行われた大工事も、多くの人たちには忘れられた存在になってしまったのだろうか。 柏原市安堂(柏原市役所辺り)から堺の北部の河口まで、延長約14Km、川幅約180mの新しい川は、1703年(元禄17年)2月に工事を開始し、同年の10月(3月に年号は宝永元年に改元されている)には完成したという。
 現在の土木工事のように重機を駆使することなく、わずか8ヶ月間という超スピード工事で造られたとは想像し難く、江戸時代の土木工事のレベルの高さに驚嘆すら感じる。
大和川付替え工事
 大和川は常に洪水の危険が付きまとい、古くは飛鳥、奈良時代から洪水の記録があり、江戸時代になってからでも、元禄年間までの80年間で10数回もの洪水が河内平野を襲っている。特に、1674年(延宝2年)から3年連続、計4回の洪水は未曾有の被害をもたらし、その被害は河内平野だけでなく、大坂市中まで及んだという。
 こうした被害をなくすため、1657年(明暦3年)ごろ、河内地域の農民から大和川を石川との合流点から西に向け、直接、住吉、堺方面へ流す案を幕府に嘆願した。
この付け替え運動に中心的役割を果たしたのが、今米村(現東大阪市)の庄屋中甚兵衛であった。これに対して付替え予定地に当たる村々は、激しく反対し、付替え反対の嘆願を行い、河内を2分する様相であった。
 幕府は、たびたび現地を検分、付替え以外の対策も検討され、河村瑞賢が下流の改修工事を行った以降も洪水が続発し、抜本的な洪水対策にはならなかった。
 このような事態を踏まえ、幕府は方向を転換、1703年(元禄16年)10月大和川の付替え工事を正式に決定した。明暦3年の最初の嘆願から、付替え工事の決定まで、実に約50年近くの歳月を要した。
この工事にかかった費用は約7万7千両、工事従事者延べ約286万人と言われる。費用のうち幕府は約3万7千両を負担したが、旧川筋の新田開発の入札代金が約3万7千両で、幕府にとっては収支トントンの事業であった。
                    
                                          『大和川付替え物語(柏原市役所発行)』より
[参考資料] 『現地説明板』 柏原市 
         『大和川物語』、『大和川付替え物語』 柏原市役所
柏原市役所前から見た大和川 河口までの距離を示す石標
 柏原市役所前から下流を望んだ大和川の流れは、太古の昔から現在のようであったかのようだ。
大きくカーブをしている付近が付替え箇所(下の写真の高瀬川取水口)。堤防に立てられていた石標には「河口から18Km」とあった。工事が行われた当時に比べ、その後港の埋立などが行われて、4Km程長くなっている。
大和川からの長瀬川取水口 柏原市内を流れる長瀬川
 柏原市上市2丁目、築留(付替え工事の起点)にある長瀬川への大和川からの2番取水樋(左側の写真)。
右側の写真は堤防を挟んだ反対側の長瀬川で、かっての大和川に比べ、その川幅はウン10分の1となり、柏原市内を流れている。3番取水樋からの取水と合流した高瀬川は八尾市二股で玉串川と分岐し北西に流れ、八尾市、東大阪市を貫通し、大阪市城東区放出で第2寝屋川に注ぎ、玉串川は八尾西部を貫流、東大阪市玉串元町で第2寝屋川に注いでいる。
柏原市内を流れる平野川 大和川からの平野川取水口
 柏原市古市2丁目にある平野川(明治時代に作成された地図には了意川と記載されていた)への4番取水樋(右側の写真)から国道25号線をくぐり、柏原市内を流れていく(左側の写真)。平野川は柏原市西部を貫流し、八尾市南部にある八尾空港の周囲をめぐり、大阪市内に入っている。
大阪市内では平野区、生野区、東成区、城東区と大阪市東部を貫通し、大阪城東側にある森之宮2丁目で第2寝屋川に注いでいる。
治水記念公園 付替え工事の基点となったには、現在は築留治水記念公園があり、付替えの功労者、中甚兵衛の像や治水関係の碑が建てられている。
中甚兵衛の銅像 付替え工事250年記念碑
中甚兵衛の銅像。
1989年(平成元年)に甚兵衛生誕350年を記念して、柏原ライオンズクラブが建立した。
付替え工事250年記念碑。
1955年(昭和30年)に建てられた。当時大阪府知事であった赤間文三氏が碑文を寄稿をしている。
治水関係の功労者の顕彰碑 万葉歌人高橋虫麻呂の歌碑
治水関係の功労者の顕彰碑が建ち並んでいる。
建てられた年月を見ると殆んどが明治時代のもので
あった。
奈良時代の万葉歌人高橋虫麻呂の歌碑。
『河内の大橋を独りゆく娘子(をとめ)を見る歌一首 并せて短歌』と題する長歌と短歌が刻まれている。
片足羽川(かたあしはがわ):当時大和川はこのように呼ばれた?)にかかる大橋を一人渡る娘さんを謳っている。1992年(平成3年)柏原市文化連盟の建立。

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