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史 跡
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桜田門外の変大坂編 (2) 所在地:
「佐久良東雄寄寓奉任の処」碑
坐摩神社:大阪市中央区久太郎町4丁目 

「佐久良東雄歌碑」
天王寺公園:大阪市天王寺区茶臼山町 
佐久良東雄史蹟

佐久良東雄(さくらあずまお)は幕末時代の国文学者で歌人。尊皇攘夷の一として活躍した人である。
1811年(文化8年)常陸国新治郡浦須村(現 茨城県石岡市浦須)の郷士の家に生まれる。
9歳にして下林村観音寺にて得度、僧康哉に師事し、良哉と称した真言宗の僧であったが、尊皇愛国の精神に燃え、平田篤胤に私淑して国学を志し、1843年(天保14年)頃、還俗し、佐久良を姓とした1845年(弘化2年)京都に上り、ついで大坂に移り、坐摩神社の神官となった。

1860年(万延元年)桜田門外の変の後、西下した水戸浪士たちの支援を行うが、 大阪に逃亡してきた高橋多一郎とその子庄左エ門をかくまった罪により、3月23日、に同志一同とともに幕吏に捕えられ、松屋町(現中央区)の牢に投ぜられ、4月に江戸伝馬町の牢獄に移送された。獄中で「吾、徳川の粟(ぞく)を食わず」と絶食、同年6月27日絶命したと伝わる。遺骸は千住小塚原に取り捨てとなった。行年50歳であった。

1869年(明治2年)遺族の手により遺骨は大阪に移され、天王寺村茶臼山の一角に埋葬されたが、ここが内国勧業博覧会の敷地になったため。(明治32年)阿倍野共同墓地に移され、更に1932年(昭和7年)かって佐久良が住職を務めた茨城県土浦の善応寺に改葬された。

[参考資料] 京都大学附属図書館 維新資料画像データベース(維新資料人名解説データ)
「佐久良東雄先生寄寓奉仕之処」石碑 坐摩神社

坐摩神社正面鳥居から望んだ拝殿。
石碑は鳥居をくぐり右手にある。
坐摩神社の境内に建つ「佐久良東雄寄寓奉任の処」の刻まれた石碑。『佐久良東雄顕彰会』により建立された。


大阪市天王寺区 天王寺公園内「大阪市立美術館」前に建つ佐久良東雄の歌碑


佐久良東雄歌碑

天王寺公園内に建つ東雄の歌碑。
歌は「花のあらしに散るを見て 事しあらば我が大君の大御為人もかくこそ散るべかりけり」
佐久良東雄歌碑裏面
この歌碑は1935年(昭和10年)11月の建碑。
歌は乃木希典大将の揮毫による。
碑の大きさは高さ約3m、幅1.2mもある立派なものである。
裏には当時の大阪府知事安井英二の撰文が刻まれている。
碑文に拠るとこの地は東雄が葬られた墓地でもあると言う。埋葬地が勧業博覧会の敷地となったため、転葬され、現在はかって住職をつとめた茨城県土浦市の善応寺にある。
大阪市立美術館 美術館の前の道
歌碑は大阪市立美術館の正面の茂みの中にあるが、歌碑のある前の道は何故か「管理道路のため通行できません」という標識が立てられており、歌碑は「知る人ぞ知るのみ」の存在となってしまっているのは残念なことである。

史跡-184/TTL-717

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