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・06/1/12
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・06/2/12
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西山宗因の墓 所在地:大阪市北区兎我野町 「西福寺」墓地
最寄駅:市バス「太融寺」下車、神山町の信号を南へ、約200M斜め向かいに読売新聞大阪本社あり

西山宗因向栄庵跡:大阪市北区天神橋筋2丁目 大阪天満宮
西山宗因は1605年(慶長10年)肥後八代に生まれる。名は豊一、通称次郎作、連歌の号は宗因、俳諧では梅翁、西翁の号を多用。別号に西山翁、野梅子、長松斎など。
 父次郎左衛門は熊本の加藤家に仕えた武士である。宗因も2代目藩主加藤忠広の家老八代情趣加藤正方の小姓として仕える。主命により上京、1621年(元和7年)より1630年(寛永7年)まで、連歌師里村昌琢に連歌の指導を受ける。
 1632年(寛永9年)主家改易に遭い、八代城も没収され家中離散となり、正方は片岡風庵と名を変え、京の本圀寺に隠棲、宗因も主君を追い、同寺近くに小屋を設け主君を慰めながら、里村家に出入りし、連歌に生きる。1644年(正保元年)正方は浅野家預かりになった後の1647年(正保4年)里村家の推挙により、大坂天満宮連歌所宗匠となった。
 70歳になっても各地を遊歴し、1680年(延宝8年)江戸にくだり、1682年(天和2年)78歳で江戸で客死したといわれるが、これを疑問視し、1681年(天和元年)11月知人に宛てた手紙には、京の新居に落ち着いたとあり、その京都仁和寺近くにあった自宅を没地とする説もある。
 著作には『談林十百韻』、『宗因五百韻』、『山の端千句』など、 門下には西鶴鬼貫来山らがいる。
 俳諧は連歌宗匠となった頃から始め、宗因を中心としたグループは「談林派」と呼ばれ、連歌・俳諧の革新を目指した。従来の「貞門派」のように古典的な格式や面倒なルールに束縛されない、革新的な考え方は大坂の新興町人階級の旺盛な生命力と呼応し、非常な勢いで波及した。
 談林派は全国的に流行するが、句風は珍奇を狙って拡大、戯れ、遊びに過ぎる放縦無類の句が粗製濫造され、宗因の意図とは離れていく。保守派の批判が宗因に集中したため、晩年には逆に談林を倦むようになった。
 延宝年間(1673〜80年)に貞門派との間で激烈な論争が起こったが、宗因はこれには加わらず、やがて連歌に帰っていったといわれる。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
西福寺 この西福寺のある辺りは、豊臣秀吉の都市整備に始まり、「大坂夏の陣」後に松平忠明が市街地整理のため、お寺を集めたところで、「天満寺町」とも呼ばれていた。現在でも西福寺の近くのバス停は「寺町通り」になっている。
東西の通りにあるお寺には大阪を代表する有名人(大塩平八郎緒方洪庵山片蟠桃中天游など)が眠っている。
墓は位牌型の6名の合同墓である。
中央の上の部分に『實省宗因法師』とある。この墓は、1688年(元禄元年)7回忌に建てられたとする説が有力である。
西山宗因の墓
 西山宗因向栄庵跡  
天満・西山宗因向栄庵跡 大阪天満宮の門前にある『西山宗因向栄庵跡』碑。
52歳の時、ここ天満碁盤町に向栄庵を結び『告天満宮文』を起草し、談林派の隆盛を祈念。談林派総帥として俳諧の世界に新生面を開いた。

文化人墓-023/TTL-244

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