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有名人・文化人墓所
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富永仲基の墓 所在地:大阪市天王寺下寺町
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前」下車、太平寺の手前西へ、
口縄坂を降りる。松屋町筋を北へ、2軒目の寺院
富永仲基(なかもと)は江戸時代の大坂が生んだ町人学者で、その思想は本居宣長平田篤胤に大きな影響を与えたといわれる。
 1715年(正徳5年)大坂淀屋橋尼崎町1丁目(現中央区今橋3丁目)で醤油醸造業を営む富永芳春の2男として生まれた。幼名幾三郎、通称道明寺三郎兵衛
 10歳で父の興した「懐徳堂」に入り、三宅石庵に陽明学を学ぶが、17、8歳のとき『説蔽(せつえい)』を著し、儒教を批判したため破門されたとの話が伝わっているが、石庵の亡くなったのは仲基が15、6歳の頃といわれ、『説蔽』の刊行はあったが、破門の事実は後世の仏教者が仲基の悪口を言うための作り話ではないかとの説もある。
 主な著書は24歳のときに『翁の文』を刊行。これは感情に走りすぎた『説蔽』を書直し、学問的論拠も加え理論武装し、懐徳堂の学風である合理主義・無鬼論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を歴史的に批判し、誠の道を提唱している。1744年(延享元年)には『出定後語』を発表、「加上」と名づけた独特の思考法説をもって、仏教思想を批判的に説き、大乗非仏説を述べている。
 封建時代にあって考えられない過激な理論は、学会や宗教界、世間の人々から反感を買ったが、仲基は信じる道を歩き、科学的歴史観に日本史執筆を企画し、表題を書いたところで吐血し、1746年(延享3年)32歳で世を去っている。
 戦前の著名な歴史学者である内藤湖南は,、仲基の業績を高く評価し、日本の生んだ天才の5人の内の1人に入ると述べている。

[参考資料] 『大阪人物辞典』 三善貞司編 清文堂出版社
西照寺(大阪市天王寺区) 松屋町筋に面した西照寺の山門。
このお寺の並びに芭蕉の墓がある円成院がある。
「富永仲基の招魂碣」。
富永一族の墓標の中には仲基の墓はなく、この供養碑は明治になってから新しく建てられたものである。
富永仲基の招魂碣
富永一族の墓  富永芳春の墓
境内の一角にある富永家一族の墓。
墓石はいずれも50〜60cmの高さであり、大坂を代表した商家の墓とは思えない簡素なお墓の一群である。
前列中央の白い墓石が「富永仲基の招魂碣」
仲基の父芳春の墓。名は徳通。 通称道明寺善右衛門、1724年(享保9年)に開校した懐徳堂創設の5同志の1人で、自らの隠居屋敷を校地にあてた。1739年(元文4年)56歳で没した。

文化人墓-030/TTL-260

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