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所在地:堺市堺区北三国ヶ丘町2丁
最寄駅:南海高野線「堺駅」下車、東出口より北東へ徒歩5分 |
方違神社(ほうちがい)は摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の境に鎮座し、「三国丘」とも称され、その起源は古く、崇神天皇8年冬に物部大母呂隅足尼(宿祢)を遣わして茅渟の石津原(現在地)に素盞鳴命を祀ったのを創始とする。
神功皇后が三韓出兵の帰途、当社に立寄り、住吉大神の御神教に従い、神武天皇の故事に倣い、この地において、自ら八十八平瓮をつくり、天神地祇を祀り、皇軍の方忌災除を祈ったという。
また応神天皇の時、住吉の三筒男神と神功皇后を合祀し、「方違大依羅神」と号したと伝える。
永正年間(1504~21年)の兵火と1722年(亨保7年)の火災により、詳細な沿革は不明だが、1159年(平治元年)関白藤原基実の奏請により、従3位が与えられ、1189年(文治5年)には皇居修理のために祈願があり、社殿の造営がされたという。また後醍醐天皇の御代、永福門院の令旨により、勅願所に定められ、修理の節は住吉社と同じく、内史が派遣され、徳川時代にも引き継がれている。
当社が早くから公家の崇敬を得るようになったのは熊野街道の近くに位置していたと考えられ、熊野詣での人々は必ず当社へも参詣し、旅の安全を祈った。藤原定家の『後鳥羽院熊野行幸記』にある、「次に堺に於いて御禊あり」とは、当地のことである。
江戸時代も公武の崇敬が厚く、提灯や扁額の寄進があったが、庶民の信仰も盛んで、家を新築したり、旅に出かける者は宮地の土を受けて、祟りや災難を祓ったという。 |
[参考資料] 「方災除の社 方違神社」 方違神社パンフレット
『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社 |
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旧長尾街道に面して建つ鳥居。
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神社の入口に建つ「万葉集の歌文」の碑。
巻七に『三国山こえずに住まふむささびの鳥まつごとわれ待ち痩せむ』と詠まれ、碑文は漢文で彫られている。 |
色鮮やかな方違神社の本殿(横から撮影)。 |
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方違神社の拝殿。 |
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境内に建つ「神功皇后御馬繋之松」の碑。
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常夜灯と手水舎。手水鉢には「方違宮」、「三国山」とあった。 |
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田出井山古墳が境内より望める。
反正天皇陵に比定されている。百舌鳥古墳群の中でも最も北に位置し、墳丘長148m、前方部幅110m、後円部径76m。
1757年(宝暦7年)刊の『全堺詳誌』には、発掘されている跡がある旨の記載があり、当時すでに盗掘されていたことが知られる。 |
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境内社の「稲荷社」。安土桃山時代の修築と伝える。 |
境内社の「神明社」。 |
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境内社の「楠木姫大神社」。
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方違神社の前の道は旧長尾街道(現大阪府道 堺大和高田線)であるが、その歴史は古く、推古天皇の御代に整備され、「大津道」と呼ばれた官道である。 |
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[2012年1月16日参拝] |
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