大阪再発見の表紙に戻る
霊場参拝
おおさか十三仏
第3番
ロゴをクリックすれば
一覧表に戻ります
一乗山家原寺 所在地:堺市西区家原寺町1丁
最寄駅:JR阪和線「津久野」下車、駅前の広い道を南へ、大池の
手前を東へ500M
当山は行基菩薩の誕生の地として有名である。704年(慶雲元年)行基菩薩37歳のとき、亡父菩提のため、生家を寺とし、本寺を起こした。その後、聖武天皇の頃伽藍が整えられ、その勅願所として発展する。
以来、1300年の間には、織田信長の兵火で焼かれたりした興亡浮沈の歴史があったが、現在の本殿・文殊殿は1648年(慶安元年)に再建された建物である。
1966年(昭和41年)高野山真言宗別格本山となり、現在に至っている。
行基菩薩は668年(天智天皇7年)大鳥郡蜂田に生まれ、父は百済系渡来氏族の末裔西文氏(かわちのあやし)一族の高志才智とされる。母は河内国(のち和泉国)大鳥郡の蜂田首(現在の華林寺)の出と伝わる。
15歳で出家、道昭を師とし、法相宗に帰依する。24歳の年に受戒。初め法興寺(飛鳥寺)に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力、神通力を身につけた。37歳の 時、山を出て民間布教を始めたという。
各地に橋、池、道、港などの施設を多く作り、餓死する人々を救うための布施屋を建て、民衆への仏教伝道にも努めた。時の政府からの弾圧にも 屈せず民衆救済の活動を進めたため、彼を慕って従うものは1千人にも及び、生きながら「行基菩薩」と称された。東大寺の大仏造営には、民衆の絶大な影響力 から大仏造営費の勧進に起用され、史上初めて大僧正に任ぜられた。行基を開基と称する寺院は全国で1400ヶ寺にも及んでいる。
81歳で平城京の菅原寺(現奈良市菅原町喜光寺)で入滅。

[参考資料] 『郷土資料事典』大阪府編 (株)人文社
          『おおさか13仏巡礼』 おおさか13仏霊場会編
家原寺山門 家原寺南大門(仁王門)。
家原寺の建造物では最も古い建造物の1つとのことだが、建立時期の詳細不明。
1965年頃(昭和40年)修復している。
合格祈願のハンカチで埋め尽くされた本堂 家原寺-1
本尊の「文殊菩薩」は天平仏で日本3文殊の一つ。「家原の文殊さん」別名落書き寺と呼ばれ親しまれ、入試合格祈願に訪れる人が多く、本堂の内外の周りは「合格祈願」のハンカチと折鶴で埋め尽くされている。
お寺に入ったところの放生池の中央に立っている行基菩薩像。行基は諸国行脚の足跡を全国各地に残しており、行基の開山と伝える寺院は数多く存在する.

行基が堂宇を建立したり、本尊を造仏したという伝承を伝える寺院は、ある調査では全国で、北は北海道(?)から、南は九州まで、1400ヵ所にも及ぶとのことで、まさにスーパーマンである。
放生池に建つ行基菩薩像。
家原寺-3 3重塔は1989年(平成元年)の建立で、境内に数ある建屋の中では、比較的新しい堂宇である。
ご朱印
おおさか十三仏霊場
家原寺朱印
[2003年9月28日参拝]

寺院-018/TTL-038

1つ前に戻る このページの上に戻る 表紙に戻る

Copyrightc2015.Yoshi Planning.All rights reserved. 写真及び文章の無断使用は禁止します。