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補陀洛山総持寺 所在地:茨木市総持寺
最寄駅:阪急京都線「茨木」下車、北へ約500m
当山は補陀洛山と号し、寺伝によれば中納言藤原山陰(京都・吉田神社の創建者とも伝わる)が父高房が抱いていた造仏の願を果たすため、遣唐使大神御井に頼んで白檀の香木を購入、千手観音像を造って摂津国島下郡に一宇を建立して安置、「総持寺」と名付けた。
 寺伝では総持寺創建を890年(寛平2年)のこととしているが、山陰は888年(仁和4年)に亡くなっているので、創建は彼が摂津国班田検校使となった879年(元慶3年)頃と見られる。
 寺伝の『縁起絵巻』には、中納言藤原高房が承和年中(838〜48年)大宰府に赴任途中、淀川で漁師に捕獲された亀を助けたが、その夜河口で、船中より息子の政朝(山陰)が海に落ちたので観音経を念じたところ、先に助けた亀が現れ、山陰を助けた。このため、高房は観音の造仏を発願したという。
また、『今昔物語』には、山陰中納言が亀を助けて、子供の如無を救助してもらった話(主人公の世代が1代ずれている)がみえ、「山陰中納言は摂津の国に総持寺という寺、造たる人也」とある。
 総持寺は藤原山陰一門の氏寺として発展し、平安時代後期には西国33ヶ所観音霊場の1所となった。
室町時代には後小松天皇が宸翰寺記を送っているが、1571年(元亀2年)白井河原合戦で織田信長軍のため、諸堂僧坊はことごとく焼失したが、本尊の下半身の焼痕はこの時の罹災によると伝わり、一名「火防(ひふせ)観音」とも呼ばれる。
 1603年(慶長8年)豊臣秀頼の命により片桐旦元が奉行となって再建し、江戸時代には25石3斗の寺領が安堵されている。

[参考資料]  『日本歴史地名体系(大阪府編)』 平凡社
          『摂津国八十八ヶ所霊場案内記』 古寺顕彰会発行
総持寺山門 総持寺本堂
寺院は小高い丘の上にあり、山門(仁王門)は下の道からは見上げる形になり、威容を誇る。
本堂は1603年(慶長8年)豊臣秀頼の再建による。
本堂のほか、総門、開山堂、奥の院なども豊臣秀頼の再建とのこと。
総持寺金堂 総持寺鎮守社
薬師如来を安置する金堂。 鎮守社。大黒天、弁財天、青色金剛を祀る。
総持寺包丁社 総持寺普慈観音
山陰大納言政朝は料理の名人と伝わり、膳部料理の山陰流(四条流)包丁式の開祖とされ、これにちなみ包丁社が祀られている。 ぼけ封じの普慈観音。
ぼけ封じ33観音6番札所、近畿十楽観音6番札所でもある。
ご朱印
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総持寺朱印-1 総持寺朱印-2 総持寺朱印-3
[2005年3月9日参拝] [2005年3月9日参拝] [2001年10月20日参拝]

寺院-112/TTL-354

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