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霊場参拝
和泉三十三ヶ所 和泉三十三ヶ所
第25番
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慈眼山孝恩寺 所在地:貝塚市木積
最寄駅:水間鉄道「水間」下車、徒歩約25分(水間寺より徒歩
約15分)バスの便もあるが1時間に1本。時間帯により0本のときもあるので要注意。
  当山の観音堂(本堂)は鎌倉時代の建築物で国宝に指定されている。この観音堂はもとは当寺と隣接する観音寺のものであったが、観音寺は1889年(明治22年)廃寺となり、観音堂は1914年(大正3年)に当寺に合併し現在に至っている。
  前身の観音寺は聖武天皇の勅願により726年(神亀3年)行基菩薩が創建したと伝えられ、いわゆる畿内49院の1つに数えられ、建立のとき用材をこの地に集めたことから「木積」の地名が起こったとされる。
  室町時代には和泉の守護職であった山内氏(明徳の乱)や大内氏(応仁の乱)の争いや1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来攻めのときに堂宇のほとんどが灰燼に帰したが、観音堂は難を免れた。
[参考資料] 『現地説明板』 貝塚市教育委員会
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
バス停から孝恩寺を望む。蕎麦原川に面した高台にある。山門の脇の鐘楼の梵鐘は「昭和22年(1947年)」の銘があった。右の写真は入口にある「釘無堂」の石碑
孝恩寺山門。
国宝観音堂。1903年(明治36年)に指定を受けている。
鎌倉時代後期の再建で大阪府下では最古の部類の木造建築物。創建時釘を使わ無かったところから別名「釘無堂」と呼ばれている。
堂内には重要文化財の仏像19体と1面の板画が安置されていたが、現在は別棟の保管蔵に移され管理されている。
本堂の白壁部分には心無い落書きが多く見られ、近年の日本人の道徳感の欠如は嘆かずにおれない。
境内に建つ石造五輪塔。台座の部分に「貞和二、二年戌子」と刻されているのがかろうじて読める。
解説板によると貞和四年(1348年)は北朝の年号で、この地域は南朝勢力下にあって、貴重な事例とのこと。
境内の一角に建つ納骨堂。
ご朱印
和泉三十三ヶ所観音霊場
孝恩寺朱印
[2007年2月12日参拝]

寺院-195/TTL-529

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