|
所在地:尼崎市常光寺3丁目
最寄駅:阪神「杭瀬」下車、国道2号線を越え、北へ約500m右側 |
当山の縁起は、829年(天長6年)弘法大師が諸国を巡錫の途上、当地に立ち寄り創建したと伝わる。かっては七堂伽藍を備えた大きな寺院であった。
鎌倉時代の文保元年(1317年)の日付がある『像中略縁起』によれば、「放一浄光、句故浄光寺也」と寺号の由来が触れられており、また同寺に伝わる『紙本着色浄光寺縁起』(その作風より桃山時代の作と思われ、尼崎市の指定文化財となっている)には、当山の縁起とともに、南北朝の時代、楠木・和田連合軍と、ここ浄光寺を城として利用した箕浦氏との戦いの模様が描かれているとのことである。
1579年(天正7年)織田信長が荒木村重を攻めた際、堂宇・伽藍は兵火に遭い、その後豊臣秀吉の太閤検地により、供田は没収され、寺名は地名となり、寺は慈眼院と改名された。
慶長年間(1596〜1615年)には度々洪水に遭うなど、衰退したが、1686年(貞享3年)京都智積院の僧性海は村人の協力を得て、大和郡山城主柳沢氏から本堂を寄進を受け、、建立してもらうなどの策で再興を図っている。
明治初年の神仏分離令で境内は神社と寺院とが分離され、更には昭和に入り、寺院の前には公道が開通し、境内は大きく削られるなどしたが、残された土地に諸堂を移築し、現在に至っている。
|
[参考資料] 『摂津国八十八ヶ所霊場案内記』 古寺顕彰会発行
『現地説明板』 尼崎市教育委員会 |
|
かっては広大な境内であったと伝わり、この付近の地名にも「常光寺」の名を残すが、現在ではこじんまりとしたたたずまいである。
山門の左側に「慈眼院」と銘のある石碑が建っている。 |
本堂は(昭和48年)弘法大師生誕1200年祭に当り、鉄筋コンクリート造りで建てかえられた。
阪神淡路大震災の時も、本堂は無傷だったとのことである。 |
|
|
|
境内に祀られている七福神。 |
道を挟んで向かい側にある「皇大神社」。
この神社の祭神である天照皇大神も弘法大師の勧進と伝わり、浄光寺の一角にあったが、明治初年の神仏分離の折、分かれた。 |
|
|
|
摂津八十八ヶ所霊場 |
|
|
|
|
|
[2005年5月4日参拝] |
|
|