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所在地:京都市左京区一乗寺竹ノ内
最寄駅:叡山電鉄「修学院」下車、東へ徒歩約1.2Km |
曼殊院は竹内門跡とも呼ばれ、寺伝によれば、延暦年間(782~808年)最澄が比叡山に一宇の草創に始まり、947年(天暦岩塩)是算(ぜさん)の代に叡山西塔北谷に移り、東尾坊(とうびぼう)と称した。
菅原氏の出身であった是算は、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治までこれを兼務した。
天仁年間(1108~10年)忠尋座主が当院の住持であった代に曼殊院と改めたが、忠尋が北野天満宮の別当職を兼補されてより、門跡院地を葛野郡北山の地に開いた。以来、曼殊院は鎌倉時代を通じ叡山西塔に本坊、北山に院地を兼備した。
文明年間(1469~87年)伏見宮貞常親王の子慈雲法親王が33世住持として入寺し、以後、代々法親王が院主となるに及んで、宮門跡寺院となった。
現在の一乗寺の地に移ったのは1656年(明暦2年)、桂宮智仁親王の次男良尚法親王の時である。
1871年(明治4年)に寺領は公収されたが、由緒寺院たるにより、禄高231石5斗が、1876年(同9年)には石代725円10銭2厘を与えられ、門跡の称号が許された。
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[参考資料] 『曼殊院門跡』 曼殊院パンフレット
『日本歴史地名体系(京都市編)』 平凡社 |
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麓の道から参道を登ってくると正面に勅旨門が見える。 |
曼殊院への参拝客はこの門からの出入りする。 |
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通用門をくぐったところにある庫裏。入り口に「媚竈(びそう)」という額がかかっている。良尚親王の筆。
論語八佾編に「その奥に媚びんよりは、むしろ竈(まかど)に媚びよ」とある。 |
玄関から大書院に向かう廊下から、梅林の向こうに護摩堂が見えた。
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大書院の前の庭園。遠州好みの枯山水とのことで、名勝指定庭園になっている。
右の写真は鶴島と呼ばれ、鶴の形をした五葉松は樹齢約400年といわれる。 |
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小書院の前から庭園を望む。右端の突き出た建物は大書院(本堂)で、堂内の墨書銘で1656年(明暦2年)の建立であることが知られる。江戸時代初期の代表的な書院建築で手前の小書院とともに重要文化財。 |
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近畿三十六不動尊霊場 |
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[2007年9月8日参拝] |
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