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所在地:大阪市北区中之島5丁目
最寄駅:JR環状線「福島」下車、浪花筋を南へ、玉江橋
を渡り、西へ約100M |
慈雲尊者は1718年(享保3年)四国の高松藩125万石の蔵屋敷、外祖父川北又助宅にて生まれた。父は上月安範、播州赤松氏の子孫で生涯を浪人として送ったと思われる。母は徳島の藩士、牧養元の娘で、後に川北又助の養女となった。名をお幸と言い、後にお清と改めた。
尊者はその第7男。幼名は満次郎、後に平次郎と改める。12歳で外祖父が没し、13歳にて父を喪い、その遺命と母の勧めに従い、田辺・法楽寺にて貞紀和上のもと出家した。
この地域は、江戸時代は各藩の蔵屋敷が立ち並んでいたところで、それを示す石碑が、所々に建てら
れている。堂島川を挟んで玉江橋を渡った東側に「中津藩蔵屋敷跡」の碑があり、同じ場所に「福沢諭吉生誕地」の碑が建てられている。大阪が生んだ世界に誇る偉人が揃って、下級士族の子弟で、蔵屋敷で誕生しているということは、何か因縁めいたものが感じられる。
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[参考資料] 『百済山長栄寺(慈雲尊者と長栄寺)』 長栄寺パンフレット |
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慈雲尊者の生誕碑は、元高松藩蔵屋敷跡、中之島通りに面したところに、ひっそりと建てられている。
この碑は1951年(昭和26年)近畿電気通信会館の完成を記念して、施工業者(ゼネコン)が中心となり建てたもの。 |
「慈雲尊者生誕碑」の建っている場所は、近くに国際会議場や大きなホテルがあり、人通りが激しいが、この碑に気づき足を止める人は殆どいない。現在はマンションの工事が行われおり、現場事務所がすぐ傍まで接近している。
(2004年2月下旬撮影) |
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2004年10月下旬、国際会議場に所用があり、尊者の石碑の前を通ったところ、柵の内側に『慈雲尊者生誕の地』を説明する掲示板が建てられていた。(上の写真と比較乞う)
現在、中之島に沿って地下鉄の工事が行われており、この工事を担当しているゼネコン(3社の共同企業体)が建てている。「慈雲尊者生誕碑」はどうもゼネコンに縁があるようだ。
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「高松藩蔵屋敷跡」の碑は、慈雲尊者の生誕碑が建っているところの隣り「ロイヤルホテル」の前、植込みの中にに建てられている。
「慈雲尊者生誕碑」よりも立派な碑が建てられているが、尊者の生誕碑と同様、立ち止まって見入る人は皆無である。
「高松藩蔵屋敷跡」の碑は左端の
植木の前に建てられている。
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