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史 跡
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長柄の人柱 所在地:大阪市淀川区東三国1丁目 「大願寺」
最寄駅:JR京都線「東淀川」下車、駅前の道北へ
長柄の人柱の話は大阪で育ったある年代以上の人なら、一度は耳にした事がある説話である。また、話の詳しい内容は知らなくても、 『物言じ父は長柄の 橋柱 鳴ずば雉子も 射られざらまし』の歌は、話の比喩として使う人も多いのではないかと思われる。
 その昔、摂津国長柄江付近は沼地や湿地などが多く、大雨が降れば川が氾濫すると言う交通の難所で、淀川に橋を架けることが、歴代の為政者の最大の課題であった。 この長柄の人柱の話は嵯峨天皇の時代とも、推古天皇の時代とも言われ、はっきりしないが、架橋工事が完成寸前で風水害に見舞われ橋杭などが流されてしまった。この時に垂水 (現吹田市垂水町)の長者・巌氏が「架橋を成功させるには人柱が必要。袴につぎの当たった者を人柱に」と役人に進言した。ところが自分の袴につぎがあり、巌氏は心ならずも自らの失言により、人柱になったと言う。
 この話はこれで終わりではなく、続きがあり、河内禁野の徳永氏に嫁いでいた巌氏の娘・照日は父の死を悲しみ、物言わぬ人となってしまった。ついに離婚されることとなり、 夫が実家まで送ってきたが、その途中1羽の雉の鳴く声が聞こえ、すかさず夫は弓矢をとり、雉を射止めた。そのとき照日の口より出た言葉が、冒頭の『物言じ 父は長柄の‥‥』だった。夫は妻の心の内を知り、雉を手厚く葬り、妻を伴って河内に引き返したといわれる。

[参考資料] 『現地説明板』 大願寺
長柄人柱巌氏碑 長柄の人柱となった「巌氏碑」が、大阪市淀川区東三国にある「大願寺」の北側の境内地に立っている。
現地の「長柄人柱の由来」の説明によると、『621年(推古天皇21年)巌氏は「日頃の報恩の精神すなわち、慈悲の心を達成するため」、自ら志願して人柱となった』とあり、 究極の自己犠牲の美談となっている。
この碑は1936年(昭和11年)に建立されており、自己犠牲の美談も、準戦時体制にあったこの時代の背景も無縁ではないと思われる。
また、人柱の場所もこの地としているが、現在の長柄橋とは直線でも2.5Km以上は離れており(神埼川とは500m)、時代とともに流れは変化していったにせよ、 橋の位置も特定するのは困難なようである。
 大願寺-1

大願寺山門
大願寺本堂
大願寺は623年(推古31年)推古天皇の勅命により人柱となった巌氏の菩提を弔うために建立したとの伝承がある。
当寺には、後一条天皇が1019年(寛仁3年)長柄橋の杭を用いて仏師・定朝に彫らせたと伝えられる地蔵菩薩像や橋杭の残木など、人柱にかかわる遺物が多く伝わっている。
大願寺の山門。
「弧雲山仏性院 大願寺」の寺号は創建の時に賜ったものだという。

史跡-051/TTL-253

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