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所在地:大阪府枚方市高野道(京都府八幡市八幡南山)
最寄駅:JR学研都市線「長尾」下車、京阪バスで「摂南大学薬学部」行き、終点で下車。 |
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洞ヶ峠は東高野街道の山城、河内の国境にあり、南峠とも言う。地理的には京を遠望し、河内平野を控えるため、交通・戦略上の要地として重要視され、南北朝時代にはしばしば陣所が置かれ、争奪戦が繰り広げられた。
1582年(天正10年)本能寺の変の後、明智光秀が羽柴秀吉と山崎の合戦で対峙した折、光秀に助勢を乞われた大和郡山城主の筒井順慶がこの峠まで出陣し、戦況の有利な方に味方をすべく観望していた場所として有名である。
しかし、日和見主義の代名詞としての『洞ヶ峠の順慶』、『洞ヶ峠を決め込む』は史実ではなく、順慶は郡山城からは一歩も外に出ていなかったとも言われるが、一部の兵を合戦
の偵察隊として、この洞ヶ峠まで派遣したとの話もあり、あながち後世の作り話だけではなさそうである。 |
[参考資料] 『現地解説板』 枚方市教育委員会 |
筒井順慶:1549年(天文18年)大和国添下郡筒井村に生まれ、2才で家督を継ぐ。
巷間、比喩として使われる『もとの黙阿弥』の謂れは、彼の父順昭が死に際して一族・重臣達に順慶の擁立を誓わせ、敵方へは自分の死を堅く秘し、身代わりとして奈良に住む黙阿弥という盲目で琴の師匠を立てるよう遺言した。黙阿弥は約1年間、順昭の役を果たした後「もとの黙阿弥」に返ったとの故事から来ている。
順慶の生涯においての宿敵は松永久秀であり、順慶11才の時から29才まで、18年間抗争を続けている。
最終的には、1573年(天正元年)信長の支援を得た順慶は久秀を打ち破り、多聞山城を陥れた。
順慶が信長に近づく仲介をしたのが明智光秀であり、この時の縁で、光秀は本能寺の変後の協力を順慶に申し入れてきた。地元大和郡山では、この誘いに応じなかった順慶に対し、大和を護った智将であると評価している人が多い。順慶は1584年(天正12年)郡山城中で没している。36歳の短い生涯であった。
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国道1号線の洞ヶ峠を京都側入ったところ(東側)に建てられている『筒井順慶陣所跡』の碑。
碑は道しるべも兼ね『右西双子塚三丁、左圓福寺三丁』とある。
碑は下の写真の茂みの左端の位置に建てられている。 |
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大阪側(枚方市長尾町)に入ったところ(上の写真の斜め向かい側になる)にある峠の茶屋。青い屋根の建物は京都府八幡市になる。茶屋の入口近くに枚方市教育委員会の洞ヶ峠の『解説板』が建てられている。 |
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旧道の頂上付近を大阪側(枚方市長尾峠町)から見た町並み。頂上の左側に摂南大学入口が見える。 |
国道1号線から東に100M程行ったところの旧街道。峠にある国境を示す石碑は摂南大学の駐車場の入口に残されているが、朽ち落ちる寸前の状態であった。 |