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史 跡
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橘諸兄の墓(1)へ
橘諸兄の墓(2) 所在地:京都府綴喜郡井手町 
最寄駅:JR奈良線「玉水」下車、
橘諸兄の墓  : 井手町南開
橘諸兄供養塔: 井手町北溝 地福寺境内
京都府綴喜郡井手町は古来より交通の要所で、井手町役場で頂いたパンフレットの表紙には『京都ロマン街道、橘氏のふるさと』とあった。
 井手町は奈良時代には橘諸兄が別業(別荘)や寺院を建て、玉井頓宮(仮宮)もおかれた。これら橘諸兄ゆかりの遺跡は現在に伝わっており、遺跡を訪ねるハイキングコースとして整備されている。
 パンフレット片手にこれらの史跡の主な所を歩いてみたが、町の角々に建てられている行き先案内や史跡に設置されている説明板なども充実しており、これらの史跡を回り終えれば、俄か「橘諸兄」通になれることは請け合える。
 橘諸兄の墓は当然のこととして存在するが、現在墓とされているところは年代が合わずその真偽の程は定かではない。しかし橘諸兄にとって最もゆかりのある地でもあり、諸兄の子供たちがこの地を墳墓の地としたことには大いに考えられることである。

[参考資料] 『井手町観光パンフレット』&『現地説明板』 井手町
         『日本歴史地名体系』(京都府の地名編) 平凡社
橘諸兄の墓-1 橘諸兄の墓-2
井手町の東方山麓はタケノコ栽培が盛んだが、小字南開地区の周りを竹薮に囲まれたところに北王塚と呼ばれる古墳があり、これが橘諸兄の墓と伝わる。現在その場所には大きな石碑と供養塔が建てられている。この古墳は1974年(昭和49年)の調査では、発見された埴輪から6世紀初期の頃ものであろうとされており、橘諸兄の時代より更に250年ほど遡ることになる。
地福寺山門 橘諸兄夫妻の供養墓
井手町字北溝の地福寺境内に橘諸兄夫妻の供養墓がある。墓はいつの時代の頃に建てられたのかは分からないが、5重塔の台座の部分に「橘」の文字がかろうじて判読できた。本堂に掲げてあった説明板には『地福寺は753年(天平勝宝5年)橘諸兄の創建。慶長年間に火災に遭い江戸時代の1655年(正保2年)に再建、さらに明暦年間(1655〜58年)に再建が進んだ。』とあった。
円提寺跡
上記の地福寺のある地区から玉川を挟んだ上井手集落に円提寺跡がある。
円提寺は井手寺とも称され、橘諸兄の創建と伝わる。
2001年(平成13年)の発掘調査では東西に並ぶ7基の柱穴が確認され、円提寺の建物の一角の可能性があるとのことである。


 1923年(大正12年)の調査
 では礎石9個が確認され、これ
 が一カ所に集められている。
井手郷旧地全図-1 井手郷旧地全図-2
円提寺跡の説明パネルには1143年(康治2年)に書かれた絵図の基に、1326年(嘉歴元年)に模写したという「井手郷旧地全図」があった。右は橘諸兄の館地と墳墓の部分を拡大した。この絵図は実は江戸時代の作ではないかとの説もあり、結論は出ていない。
井手町石垣字宮ノ本にある「六角井戸」。
石の井桁部分が6角になった井戸で、1953年(昭和28年)に受けた水害以前には水が豊富で村の共同井戸として使用されていた。
この井戸のあるあたりが「玉井頓宮」があったとされる。
『続日本記』には740年(天平12年)12月、聖武天皇がこの玉井頓宮を訪れたとある。
六角井戸
玉津岡神社 岩に彫られた弥勒仏
井手町上井手にある玉津岡神社。
この神社も731年(天平3年)橘諸兄の創建と伝わる。
本殿は江戸時代のもので、京都府の文化財指定。
上の写真は北王塚の橘諸兄の墓から更に500M程山中に入ったところにある岩に彫られた弥勒仏。橘諸兄が井手に館を建てる際、鬼門よけとして刻まれたと伝わるが、実際には鎌倉から室町時代に農民が刻んだものらしい。
小野小町の墓 しだれ梅
上の写真は橘諸兄とは関係ないが、玉津岡神社の参道の脇に「小野小町の墓」と伝わる塚がある。
小野小町がこの井手の山吹を詠った1首もあり、現地の解説板では「小野小町の墓は全国各所にあるが、『冷泉家記』に「小野小町が晩年当地に住み、井手寺で69歳で亡くなった」とあり、また『百人一首抄』にも「小野小町のおはりけるは山城の井手の里」と記されているところから信憑性は高い」としている。墓のある道を挟んで向かい側の塀からしだれ梅が咲きこぼれていた。

史跡-129/TTL-537

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