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史 跡
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樫井古戦場跡 所在地:泉佐野市南中樫井
最寄駅:南海本線「泉佐野」OR JR阪和線「日根野」OR「長滝」下車、コミュニティバス南回りで「樫井」下車
泉佐野市樫井地区の樫井河原及びその周辺は大坂夏の陣の合戦場の激戦の舞台でもあった。
 大阪冬の陣で大坂城の外堀を埋められた大坂方は城外に打って出る戦術を取ったが、ここ樫井川の合戦は、1615年(元和元年、正確には慶長20年というべきか)4月29日未明、大野主馬を主将とした豊臣方2万(1説では4万とも)の軍勢が浅野長晟率いる紀州浅野勢5千の兵に挑み惨敗した戦いである。
 数の上で劣勢な紀州軍が、大坂軍の大群が流れ込めないように地の利を生かした布陣を採ったこと、一方の寄せ集めの大坂軍は、功名を得ようと先陣争いして我先に飛び出そうとしたことなどが勝敗を決めることになったと言われる。
 大坂方先陣の先鋒塙団右衛門直之岡部大学が戦功を急いで飛び出して戦った結果敗退し、塙直之の手に加わっていた泉南の土豪淡輪六郎兵衛も格闘の末戦死したことで、大坂方の士気に大きくひびき、その後10日も経たない5月7日に堅固を誇っていた大坂城は落城した。この大坂夏の陣の前哨戦となった樫井の合戦の敗北は豊臣を滅亡に追いやることになった。

[参考資料] 『現地説明碑』 泉佐野市、泉佐野市教育委員会
         『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編) 平凡社
樫井川古戦場跡碑 明治大橋の北詰に建つ『樫井古戦場跡』の石碑。
この碑1080年(昭和55年)は地元の有志達の手により建立された。
樫井川河川敷-1 樫井川河川敷-2
樫井川の河川敷。
近くに淡輪六郎兵衛の墓がある大正大橋から明治大橋の方向を眺める。
樫井川河川敷。
上の写真は『樫井古戦場跡』の碑が建つ明治大橋から大正大橋の方向を眺めた。

塙 団右衛門の墓 所在地:泉佐野市南中樫井小字本山
塙団右衛門の墓-1 塙団右衛門の墓-2
この五輪塔は1631年(寛永8年)紀州藩士小笠原作左衛門が彼の武勇をたたえ建立し、石燈籠は団右衛門を討った八木新左衛門の孫が奉納した。
塙団右衛門直之は豊臣秀吉の家臣加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で功名をあげたが、関ヶ原の戦い以後は浪人して僧となり鉄牛と号した。
大坂冬の陣では大坂方に属し武勇を轟かした。大坂夏の陣では紀州和歌山城主浅野長晟の軍と戦うべく泉州に進み、4月29日早朝熊野街道を南下、待ち構える浅野軍に突入した。
激しい戦闘の末、団右衛門はこの地で討ち死にした。時に48歳であったという。団右衛門を討ったのは亀田高綱、上田宗古、八木新左衛門などの説があり一定していない。                    (現地説明板による)

淡輪六郎兵衛の墓 所在地:泉佐野市南中樫井小字二ノ井
淡輪六郎兵衛の墓-1 淡輪六郎兵衛重政の宝筺印塔。
淡輪氏は古くから泉州淡輪を支配した豪族で、六郎兵衛の姉は豊臣秀頼の側室小督の局。
六郎兵衛は大坂方の先鋒隊となり、塙団右衛門と共に熊野街道を南下し、樫井で待ち構える浅野軍に突入し、乱戦の中で討ち死にした。
この宝筺印塔は1635年(寛永16年)末裔の会津藩士本山三郎右衛門が25回忌の追善供養のために建てた。
                     (現地説明板による)
淡輪六郎兵衛の墓-2 淡輪六郎兵衛の墓-3
元の宝筺印塔(上の写真)は痛みの激しく、崩壊の危機に瀕したので、2000年(平成12年)末裔の人たちが再築した。

史跡-127/TTL-537

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