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所在地:東大阪市今米1丁目 「今米公園内」
最寄駅:近鉄東大坂線「吉田」下車、駅北側「協和海運」の横道を入る。 |
大和川付替え促進運動に中心的役割を果たした中甚兵衛は今米村(現東大阪市今米)の庄屋で、1639年(寛永16年)に当地で生まれている。1659年(明暦2年)に父がなくなった後、河内各地の庄屋と諮り、大和川の付替え工事を再三幕府に訴えたが、新川筋にあたる村々よりの強い反対運動もあり、ことはすんなりと進まなかった。
幕府は何回も大和川と淀川と合流する辺りから大坂河口の改修を行ったが、状況は一向に改善されず、1699年(元禄12年)の大坂河口の治水工事終了以降も、翌年、翌々年と大洪水が続き、年貢が全く納められない事態が続いたため、遂に幕府も方向転換し、1703年(元禄16年)10月、付替えが決定した。 この時甚兵衛は65歳、運動開始から50年近くの歳月が経っていた。
付替え工事の間、甚兵衛はその力量を認められ、普請御用を勤め、工事完了後はその功績により名字帯刀を許され、中甚兵衛を名乗った。翌1704年(宝永2年)に剃髪、法名の乗久を名乗り、引退した。
1730年(享保15年)93歳で天寿を全うした。墓は京都市東山区、大谷本廟(西大谷)にある。
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[参考資料] 『現地解説板』 東大阪市 |
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「中甚兵衛顕彰碑」は1914年(大正3年)に大阪で陸軍の大演習が行われた際、行幸された大正天皇より地元の功労者に叙勲があり、甚兵衛に対し、従5位が送られたのを記念して、翌年有志により建立された。
この地は元は春日神社が有ったところで、区画整理のため1983年(昭和58年)神社は現在地より約200m程北へ移転したが顕彰碑の手前には対の狛犬が残されている。 |
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今米公園に隣接する川中家の屋敷林。川中家は中甚兵衛ゆかりの家で、上記右の写真の解説板では生家としている。
1984年(昭和59年)9月、大阪府下で初めて「今米緑地保全地区」として、川中邸(0.5ha)が指定された。
市街地の屋敷が指定されたのは全国でも珍しく、ムクノキ・アラカシなど約80種270本の高木のほか、野鳥や小動物、昆虫などが数多く生息しており、期間限定だが、事前に予約すれば見学が出来るとのことである。 |
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川中家から約100m北へ行ったところにある「旧中家屋敷跡」。
明治の末までは、中家代々の屋敷があり、屋敷は東西25間、南北30間の石垣で囲まれていたという。
中家当主中 好幸氏(中甚兵衛より10代目)はこの地が甚兵衛の生家と推定している。 |