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史 跡
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西村市郎右衛門碑 所在地:八尾市志紀南2丁目
最寄駅:JR大和路線「志紀」下車、駅西口前の国道25号線を奈良方向へ約200m。外環状線(国道170号線)と交差する陸橋下。
西村市郎右衛門は弓削村の庄屋で、大和川の付替え後、慢性的な渇水問題を解決するため、自らの命をも顧みず、独断で2つの樋を引いたため、幕府に捕えられ大阪城内で獄死し、義民と称えられている。
 付替え工事後、旧大和川の川筋は慢性的な洪水被害はなくなったが、皮肉にも今度はこれらの地域は渇水問題が生じる事態となった。
付け替えから10年後の1714年(正徳4年)河内一体を襲った旱魃は特に激しく、中でも弓削村、田井中村など了意川(平野川)流域の20数ヵ村の事態はことの外、深刻だった。この事態の解決のためには新大和川から井路川へ水を引く以外に方法はなく、農民らは再三にわたり、奉行所に樋新設の許可を願い出たが、許可が下りなかった。
 庄屋の西村市郎右衛門は、意を決し、自らの責任で新大和川の堤防を切り、青地と井出口の2ヵ所に樋を設けた。これによって了意川(平野川)流域の村々は以後、旱魃から救われることとなったが、市郎右衛門は捕えられ、家財没収、一家は断絶となった。
 志紀地区には昭和の始め頃まで、「講(功)念仏踊り」と呼ばれている素朴な踊りが伝えられていたが、これは市郎右衛門の死後、その徳を偲び、霊を慰めるために、村人たちが踊り始めたものだという。
 近年、この踊りが復活され、後世に確実に受け継がれようとしているとのことである。

[参考資料] 『現地解説碑』 八尾市教育委員会
西村市郎右衛門顕彰碑が建てられている場所の全景 西村市郎衛門碑のアップ
西村市郎右衛門の顕彰碑は1916年(大正5年)地元有志の手により、建立された。
現地の解説碑には「1970年(昭和45年)外環状線の拡張工事のため、現在地に移設した」とあったが、当初は何処に建てられていたのかの記載はなかった。
元大和側の堤防の上に出来たJR志紀駅 駅周辺の下水工事
JR大和路線「志紀駅」西口。
駅前に建つ碑文によると志紀駅のある場所は旧大和川堤防跡とのことである。
駅に隣接した場所で行われていた大掛かりな下水道工事。
この地区はいつの時代も水に関わる工事が多いと見える。

史跡-175/TTL-704

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