わざわいのモト



間接照明の薄明かりが、ぼんやりと、部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。
鼻腔を掠めるように、仄かな香りが漂っている。
それが育毛剤に含まれている香料だと理解して、ジェレミアはその香りのもとに視線を巡らした。
どこかで嗅いだことのある匂いだと、昨夜も感じていたのだが、育毛剤などと無縁の彼が、それがどこで嗅いだことのある香りだったのか、結局思い出せないままだった。
僅かに眉根を寄せて、顔を顰めたジェレミアは、この匂いがあまり好きではなかった。
ジェレミアに背中を向けたルルーシュは、すやすやと気持ちよさそうな寝息をたてている。


突然のルルーシュの呼び出しに、何事かと、取るものもとりあえず駆けつけてルルーシュの前に跪いたジェレミアは、いきなりの蹴りを横っ面に喰らわされた。
「なにをなさるのですか!?」と、紅くなった頬を擦りながら顔を上げれば、ルルーシュの冷たい瞳が自分を見下ろしている。
なぜ蹴られたのか。どうしてそんな目で自分を見ているのか。
理由がまったくわからないジェレミアは、この忠義者には珍しい、不満の瞳でルルーシュを見つめ返した。
するとルルーシュは、無言のまま、くしゃくしゃの皺だらけになった紙切れを、ジェレミアの前に突きつけた。
読めということなのだろうと理解して、それを途中まで読み進めたジェレミアは、頬の痛みを忘れるほど驚愕した。

「なぜ、ルルーシュ様の秘密が・・・」
「やはり、お前か!?」
「な・・・なんのこと、ですか?」

動揺を隠せず、視線を泳がせているジェレミアに、ルルーシュは氷の刃のように冷たく鋭い笑みを向けている。

「いいか、これは今日スザクから俺宛にもらった手紙だが、学園内に、俺がハゲで悩んでいると言う噂が流れているらしい。お前・・・心当たりがあるんじゃないか?」
「わ、私は誰にも喋っていません!ルルーシュ様が薄毛でお悩みになっているなどと言う・・・そんな大切な秘密を、私が誰かに話すはずがないではありませんか!?」

慌てながら釈明するジェレミアを、不愉快そうな顔をしたルルーシュが一瞥した。

「秘密だの・・・薄毛だの・・・さっきから黙って聞いていれば、俺が本気でハゲに悩んでいるように聞こえるではないか!?」
「お・・・お悩みになって、いらっしゃるのでは・・・ないの、ですか?」

恐る恐るジェレミアが尋ねれば、ルルーシュは頭を抱え込んでいる。
「お前が勘違いをしたのはこれの所為か?」と、昨夜、斑鳩艦内のゼロの居室に置いてあった育毛剤を、目の前に翳して見せた。
確かに、ゼロの居室でその育毛剤を見つけて、ジェレミアはてっきりルルーシュが薄げ、もしくは、若ハゲに悩んでいるものだと思い込んでしまったのだが、人にあまり知られたくないような育毛剤の存在を、ルルーシュ自身が、ジェレミアの前に堂々と見せつけているのは、あまりにも不自然だ。
そこではじめて、ジェレミアは自分の思い込みが間違っていたことに思い当たった。

「あ・・・あの、も、申し訳ございません!」

慌てて一歩下がって、両膝を床に着けたジェレミアは、その額をも床にこすりつけるようにしながら、ルルーシュに向かって深々と土下座をした。
自分のとんでもない勘違いを、その程度のことで、不機嫌オーラ全開のルルーシュに許してもらえるとは、ジェレミアも思ってはいない。
尚も額を床に擦りつけて、黙ったまま平伏を続けていたジェレミアの前に、ルルーシュの気配が近づいてきた。
びくりと体を慄かせ、蹴り上げられる覚悟を決めたジェレミアは、来るべき衝撃に備えて拳を握り締め、ぎゅっと強く瞼を閉じた。
しかし、いつまで待っても、予想された衝撃はジェレミアを襲うことはなかった。
顔を上げられず、体を強張らせたまま、平伏を続けるジェレミアに、「もういい」と、ルルーシュの投げ捨てるように声が掛けられたのは、それから大分時が経過してからのことだった。
額に冷や汗を滲ませながら、のろのろと顔を上げれば、ルルーシュはジェレミアに背中を向けている。
その後姿に、不機嫌の気配は感じられたが、激怒している様子は窺えなかった。
ルルーシュの手に握られている育毛剤を凝視しながら、ジェレミアは恐る恐るその背中に声を掛けた。

「あ、あの・・・それでは、その、い・・・育毛剤は、一体なににお使いになるのですか?」

それは、自分が勘違いをしていたと気づいた時から、思っていた疑問だったが、その質問に対してくるりと振り返ったルルーシュは、ニヤリと、自信に満ちた笑みを浮かべている。

「知りたいか?」
「・・・差し支えなければ、お聞かせ願えないでしょうか?」

そう遠慮がちに言ったジェレミアの言葉を待っていたかのように、ルルーシュはその用途を話し始めたのである。
それが、ルルーシュが男らしくなる為の道具であり、黒の騎士団内に広まった噂を払拭する為のルルーシュの秘策だったのだ。

―――馬鹿馬鹿しい・・・あまりにも、馬鹿馬鹿しすぎる・・・。

もっと、なにかもの凄い策を弄しているのだろうと考えていたジェレミアは、ルルーシュのあさはかで、あまりにも馬鹿馬鹿しい計画を聞かされて、呆れて、開いた口が塞がらない。
しかし、ルルーシュは自信に満ちた顔をしていた。
その顔を見上げていたジェレミアの胸に、ふとした不安が湧き上がる。
もし、本当にルルーシュの馬鹿げた計画通り、万が一にも、薬の効果が現れたら、どうなってしまうのだろう・・・と、ジェレミアは頭の隅で、そのことを考えていたのだ。
白磁のように白く皇かな肌を、黒々とした体毛が覆い隠すように密生する、ルルーシュの腕や胸や脛を頭の中に思い描いて、ジェレミアはぞっとした。
頭の中に描かれたルルーシュは、全身毛むくじゃらで、ジェレミアを惹きつけて已まない、優雅さも気品も感じられないばかりか、それが男らしい姿とは、ジェレミアには到底思えないのだ。
そんな姿に成り果てたルルーシュを、ジェレミアには受け入れることができるはずがない。
だから、なんとしてもルルーシュのこの計画を、阻止しなければならないのだ。

「ルルーシュ様。お願いです!・・・どうか、そのようなお馬鹿な真似は、お止めください!」
「”馬鹿”の前に”お”を付けるな!余計にばかにされているようで、おもしろくない!・・・いや、それ以前に、俺のこの完璧な計画のどこが馬鹿だと言うのだ!?」
「わ、私はルルーシュ様が好きです。そのルルーシュ様のお美しい肌が損なわれることに、我慢ができないのです!」
「・・・俺が男らしくなることが、お前はそんなに嫌なのか?」
「そうでは、ありませんが・・・」

そう言ったジェレミアをじろりと睨んで、ルルーシュはしばらくの間考え込んだ後、突然なにかに思い当たったように、「あッ」と声を上げた。

「お前の考えていることがわかったぞ!お前は、俺がお前より男らしくなることに、嫉妬しているんだな!?」
「ち、違います!!そんなことは思ってもいません!」
「嘘を吐くな。お前は俺が男らしくなることで、自分の影が薄くなることを恐れているんだ。そうだろう!?」

ルルーシュの思考は、どこまでも女々しかった。
外見を気にするより先に、この女々しい性格をなんとかしなければならないだろうということに、ルルーシュはまったく気づいていないようだ。
思わず零れそうになる溜息を呑み込んで、ジェレミアはルルーシュの顔を仰ぎ見た。
どんなに女々しく歪んだ性格をしていようとも、ルルーシュはジェレミアの敬愛すべき主君なのである。
どう言えば、ルルーシュにわかってもらえるのか。どうすれば自分の本心が伝わるのか。
頭の中で必死に模索しても、答えは見つからなかった。
結局ジェレミアは、育毛剤の効果が表れないことを祈るしかできないのだ。
説得することを諦めて、がっくりと肩を落としたジェレミアに、ルルーシュは苦笑を浮かべている。

「・・・心配するな。俺が男らしくなっても、お前を捨てたりはしない」

そう言ったルルーシュの思い込み大暴走は、誰にも止められそうになさそうだった。



「はぁ」と、やるせない溜息を吐いて、意識を現実に戻したジェレミアは、そっと右腕を伸ばして、無造作に散らばったルルーシュの柔らかい髪に指先で触れた。
この艶やかな髪の毛の未来が安泰であることは大変喜ばしいことなのだが、今のジェレミアの憂鬱は別のところに移されている。
襲ってくる不安に耐え兼ねて、向けられた背中にそっと身を寄せ、きつく瞼を閉じた。
縋るように触れた、ルルーシュの背中の温もりが、ジェレミアの不安を溶かしてくれるようで心地よかった。
ルルーシュの体から発せられる微香がジェレミアの鼻先を掠め、この香りはどこで嗅いだことのある匂いだったのだろうかと、再び記憶を辿ろうと試みるジェレミアの意識は、思い出そうとすればするほど、暗い眠りの淵へと吸い込まれていった。
思考が纏まりをなくして、徐々に意識が薄れていく。
無意識にルルーシュの夜着の裾を握り締めながら、ジェレミアは暗い闇へと意識を投じた。






それから数日後。
斑鳩艦内の廊下を、厳しい表情を浮かべながら、やや広い歩幅を取りながら、早足気味に歩くジェレミアの姿が見受けられた。
すれ違った者が思わず道を空けてしまうほど、ジェレミアの脚の運びにも表情にも緊迫感がありありと滲み出ている。
その彼が、真っ直ぐに向かったのは、艦内にあるゼロの居室だった。

「た、大変です!」

室内に入ったジェレミアの第一声はその声だった。
普段は冷静沈着なジェレミアのただ事ではないその様子に、なにごとかと、ルルーシュの顔が訝しく歪められた。

「組織内に・・・また、ゼロに関するとんでもない噂が、流れています」

「また噂か」と、うんざりした顔をジェレミアに向けて、ルルーシュは、もうなにを聞いても動じない覚悟を決めている様子だった。

「今度はどんな噂だ?構わないから言ってみろ」
「は、はい。・・・じ、実は・・・先程偶然廊下ですれ違ったディートハルトから聞いた情報なのですが・・・。ルルーシュ様が・・・ゼロが、実は老人なのではないかとの疑惑が、組織内に広まっているようです」
「な、なんだと!?」

動じない覚悟を決めていたはずのルルーシュでも、流石にその根も葉もない噂には驚きを隠せない様子で、腰掛けていた椅子を倒す勢いで立ち上がった。

「なぜ俺が老人にならねばならんのだ!」
「た、大変申し上げ難いのですが・・・」

一瞬の躊躇いを見せながら、ジェレミアは部屋の奥にあるバスルームの方に、ちらりと一瞬目を向ける。

「ルルーシュ様のお使いになっている、アレの所為ではないかと思うのですが・・・」
「アレ・・・とは、なんだ?」
「その・・・い、育毛剤の所為では・・・」
「しかし、俺が育毛剤を使っていることは組織の者は、知らないはずだが?それに、それがどうして、即、老人に繋がるのだ?」
「は、始めは私も思い出せなかったのですが・・・、育毛剤に含まれている香料の匂いが、中年以上のお年を召した方が好んで使う整髪量の匂いに似ている所為ではかと考えられます」

どこかで嗅いだことのある、ジェレミアがあまり好きになれない匂いとは、中年以上の男性の髪から発せられる、整髪量の匂いだったのだ。

「・・・やめる!」
「・・・は?」
「育毛剤の使用は中止だ!」
「ほ・・・本当、ですか!?」
「男らしくなんかならなくていい・・・年寄りと思われるより、女と疑われるほうがまだましだからな!」

そう言った、ルルーシュの価値観を理解できるようになるには、まだしばらくの時間がかかりそうなジェレミアだった。